ヴァルテル・マッサWalter Massa
(ヴィニェーティ・マッサVigneti Massa:コッリ・トルトネージ地区モンレアーレM
onleale村)
毎月1回づつ、ピエモンテのワイン醸造家を訪ね、そのワインづくりの哲学を語って もらうインタビュー。 その第2回では、前回とは打ってかわって、国際的にはほぼ無名の地域で、ひとり頂 点を目指して戦い続ける「孤高の戦士」、ヴァルテル・マッサ氏をご紹介します。
彼のカンティーナ「ヴィニェーティ・マッサ」があるのは、ピエモンテ州の東のはず れ、ロンバルディア州と州境を接するアレッサンドリア県コッリ・トルトネージColl i Tortonesi地区。アペニン山脈の北側の裾野からポー川流域のパダーナ平原にかけ て広がる丘陵地帯の一角です。
この地区で産するワインに与えられた「コッリ・トルトネージ」という原産地規制名 称(DOC)を聞いたことのある人はそう多くはないでしょう。それは、同じピエモン テのランゲ地区やモンフェッラート地区とは異なり、この地区ではこれまで、どちら かと言えば「質より量」のワイン造りが中心で、バローロやバルバレスコのような銘 醸ワインは生まれてこなかったからです。
しかしその中で彼、ヴァルテル・マッサは、20年間に渡って、ピエモンテの他の有名 な銘醸ワインに肩を並べ、国際的な評価を受けることのできるワインを生み出すこと を目標に、ひとり黙々と高品質のワイン造りに取り組んできました。そして現在では 、この地域の若手醸造家の文字どおりリーダーとして、誰もが一目置く存在となって います。彼の造るワインに対する評価も近年は急上昇、イタリアで最も権威あるワイ ンガイド"Vini d'Italia"の最新版('98年版)では、2種類のワインが二つ星(due bicchieri)、3種類のワインが一つ星(un bicchiere)の評価を獲得しています。
無名ながら豊かな土壌を持つ自らの土地のポテンシャルを信じ、試行錯誤を繰り返し てきたヴァルテルの「戦い」は、いままさにその実を結びつつあるところなのです。
ワイン造りの歴史と伝統はランゲやモンフェッラートにひけを取らないなが らも、「質」の高いワインを生み出す産地としては評価されてこなかった「ピエモン テの辺境」コッリ・トルトネージ地区モンレアーレ村。あえてここで頂点を目指す「 戦い」に挑む決意を彼にさせたのは何だったのでしょう。自宅のゲストルームに我々 を迎えてくれたヴァルテルの話は、そこから始まりました。
「ここモンレアーレ村でワイン造りを始めた理由は簡単だよ。ぼくはここで生まれて
、ここには家のぶどう畑があった。アルバの醸造技術専門学校を卒業して、ワイン醸
造家を目指したときに、ぼくが持っていたのはこれだけだった。
ワインの質の上限を決めるのは、結局土地の力だから、この土地がワインに向かない
ならば、いくら努力しても成果は限られている。でも、始めてからすぐに、この土地
が大きなポテンシャルを持っていることに気づいた。土壌にしても微気候にしても、
ランゲやモンフェッラートのぶどう栽培最適地区にひけをとらないものを持っている
し、何よりもできたぶどうとワインがそれを語っていたんだ。白も赤も、ワインのエ
キス分は標準をはるかに超えている。ぼくがその時思ったのは、この土地の力を信じ
て、それをワインに語らせることができれば、きっと素晴らしいワインができる、と
いうことだった」
「それからは、とにかく思いつく全てのことを試してみた。もちろん、間違いはたく
さん犯したよ。というよりも、早いうちにできるだけたくさんの間違いを犯しておか
なければいけないと思ったんだ。それができるのは若いうちだけだからね。成果が出
始めたのはこの10年、'80年代後半からのことだよ。
今は100%の自信を持って言えるが、コッリ・トルトネージ地区、中でもここモンレア
ーレ村は、白ぶどう、赤ぶどうの両方とも、国際的に評価されるだけのワインを生み
出すポテンシャルを備えた土地だ。まあ、こういうことは口で言っても空しいだけだ
から、とにかく後はワインに語ってもらうことにしようか」
そう言って彼は試飲のためのボトルとグラスを準備しはじめました。
彼のカンティーナは、毎年約6万本(赤・白が約半分づつ)のワインを生産していま す。使っているぶどうは、白がコルテーゼを主体にティモラッソ、モスカート、赤が バルベーラを中心に、フレイザ、クロアティーナ(ボナルダとも呼ばれる)と、いず れもこの土地で伝統的に栽培されてきたぶどうばかりです。
この「地元のぶどう」へのこだわりを彼はこう語ります。
「国際的に評価されるワインを造ろうと思ったときに、行くべき道は2つある。ひと
つは、シャルドネ、カベルネ・ソーヴィニョンといった、国際的に評価されているぶ
どうを使うこと。もうひとつは、土地のぶどうを使うことだ。ぼくが迷わず後者を選
んだのは、戦う以上トップにならなければ意味がないから。
説明しよう。シャルドネを使ったワインで誰もが思い浮かべるのはブルゴーニュやカ
リフォルニアであり、あるいはイタリアなら"ガイア・エ・レイ"や"チェルヴァーロ
・デッラ・サーラ"(注:いずれもイタリア屈指のシャルドネ・ワイン)だろう。ぼ
くがシャルドネを使ってワインを造ったところで、最大限、イタリアのそれらのうち
のひとつに数え上げられるところどまりだろう。
ぼくは2番手や3番手を目指すことには興味がない。それよりも、例えばバローロや
バルバレスコのように、ナンバーワンと言われるワインを、ここモンレアーレ村を舞
台に造ることの方が、よほどやりがいのある戦いだ。
それに、この土地で伝統的に栽培されてきたぶどうは、いずれも素晴らしいポテンシ
ャルを持っている。それを引き出すことができれば、国際的にも高い評価を受けるワ
インが生まれることをぼくは信じているんだ。コッリ・トルトネーゼ地区のモンレア
ーレという村が、10年後にバローロやバルバレスコと並ぶ評価を受けないなんて、誰
も断言できない。少なくともぼくはそう思っているんだけれど」
彼が最初にグラスに注いでくれたのは、「ティモラッソTimorasso」という、この土 地で昔から栽培されながら、その栽培面積当たりの生産量の少なさ、病虫害への弱さ などから、つい最近までほとんど顧みられることのなかった土着のぶどうから造った 白ワイン。現在も、この地域でほんの少し栽培されているだけの稀少なぶどうに、し かしヴァルテルは大きな可能性を見ています。
「ティモラッソは、他のピエモンテの白ぶどうと違って、ボディとアロマがあり熟成 にも耐える"偉大な白ワイン"になり得る資質を持っている。ピエモンテは"偉大な赤" の土地だけど"偉大な白"は生まれないという、今までの常識を覆すことができる可能 性を秘めているんだ。質、個性、伝統、どれをとっても、この土地を代表するにふさ わしいワインに育つとぼくは信じている。非常に強くね。この'96、そして今タンク の中に入っている'97には、すでにその片鱗が十分に表れている」
一方、もうひとつの白ぶどう・コルテーゼは、日本でも良く知られたガヴィGaviにも 使われている、ピエモンテ南東部ではポピュラーな品種。鉱物性の酸味が特徴のフレ ッシュな白ワインが生まれます。
「コルテーゼからは、これまで、日常的に気軽に飲める弱発泡性、ガヴィ地区に持っ
ている畑のぶどうを使ったガヴィDOC、そしてここモンレアーレ村の畑のぶどうを使
ったコッリ・トルトネージDOCという3種類のワインを造っていた。
ガヴィ地区の土地は鉄分が多く、気候もより寒冷なので、香りと新鮮さを備えている
けれど、厚みが足りない痩せ気味のワインを生む。一方より肥沃で比較的暖かいモン
レアーレ村のコルテーゼからできるワインは、逆に厚みはあるけれど香りと新鮮さが
弱い、という性格を持っている。どちらも、単独では欠けているものがあるんだ。
ぼくが考えたのは、この2つのワインをブレンドすれば、コルテーゼの持ち味を完全
に生かし切ったワインができるのではないか、ということ。そこで、今年の収穫から
、ガヴィDOCとコッリ・トルトネージDOCを別々に造るのをやめて、"ドゥエテッレDue
terre"(2つの土地)というひとつのワインを造ることにした。2つの畑のワインは
、今はまだカンティーナのタンクに別々に入っているから、違いを確かめてみよう。
'97年の収穫がどれだけ素晴らしかったかもわかるはずだよ」
そう言うと、彼は我々を地下のカンティーナに誘いました。まず、2つのタンクから 別々のグラスに注いだ産地の異なるコルテーゼ・ワインを試飲。そして彼は、3つめ のグラスに、その2つのグラスに入ったワインをおもむろに注ぎ、グラスを回して馴 染ませると我々に差し出しました。「どうだい?」といってにやっと笑うヴァルテル 。
彼は、今年から、この"ドゥエテッレ"の他に、モンレアーレ村の特に優良な畑か ら採れたコルテーゼをバリックの新樽で熟成するという大胆な手法を取り入れた「特 醸」ワイン"プロフォンド・エストProfondo Est"(東の果て)を市場に問おうとして います。フレッシュな果実味が個性と言われてきたコルテーゼに、あえてバリックを 使う意図はどこにあるのでしょう。
「まず、"プロフォンド・エスト"という名前は、ここがピエモンテの、文字どおり東
の果てだということから来ている。果てであってもここは、イタリアで有数のワイン
産地・ピエモンテの一部なんだ。そのピエモンテの"辺境"から国際基準の白ワインを
世に問うという決意を、この名前に込めたつもりだ。
確かにコルテーゼは、ガヴィに見られるように、フレッシュさが持ち味の若飲みワイ
ンだといわれてきた。でも、モンレアーレ村のこの畑で採れるコルテーゼは、もっと
凝縮された、熟成に耐えるだけの力を持っている。通常15-6gがせいぜいのエキス分
が、この畑のぶどうだけは20gを軽く超えているんだ。これなら、バリックの力にも
拮抗し得る。コルテーゼで、力のある深い味わいを持ったワインをつくるというアイ
ディアは、これまで否定されてきたものだけれど、ぼくはその可能性を信じている。
もう分かっていると思うけれど、バリックは市場に受け入れてもらうために使うんじ
ゃない。ぶどうの可能性を引き出すために使うんだ。そこのところを誤解している生
産者やワイン・ジャーナリストが多いのは残念に思っている。ともかく、このワイン
は、"ティモラッソ"と共に、これからのぼくの"戦い"の大きな主役になるだろう」
彼がこだわっているのは白ワインばかりではありません。赤ワインも、バル ベーラを中心に、3種類のぶどうから、計7種類造っています。ワインガイドブック" Vini d'Italia '98"で二つ星の評価を受けたのも、2つの優良畑のぶどうから造った 2本の赤ワインでした。
「バルベーラは、この地域で最も多く栽培されてきた、コッリ・トルトネージ地区を
代表する赤ぶどうだ。ぼくは、伝統的な手法で醸造し、2年もののバリックで熟成さ
せたバルベーラ・ワインに、この村の名前"モンレアーレMonleale"を与えた。この土
地のワイン造りの伝統と文化に深く根ざすと共に、そこに醸造家の新しい試みも加わ
った、ワイン産地としてのモンレアーレ村の"現在"を代表するにふさわしいワインだ
と思うから。
この"モンレアーレ"は、いわばこの土地のバルベーラのスタンダード。このほかに、
特にいい場所にある畑でとれたぶどうから、その畑の名前を冠した赤ワインも2種類
造っている。
"ビゴッラBigolla"は、バルベーラ100%をバリックの新樽で熟成させたもの。"ヴェッ
キア・チェッレータVecchia Cerreta"という畑には、バルベーラ50%の他に、いくつ
かの赤ぶどうを少しづつ植えているので、それらから、複雑だけれどバランスのとれ
た風味を持った力強いワインができる。
この2つの畑の力は並外れている。これだけ凝縮したワインが飲み頃になるまでは、
最低でも5-6年はかかるよ。しかも、力強さだけじゃなく、エレガンスもあるだろう
?コッリ・トルトネージ地区でこんなワインができるなんて、最初は誰も信じなかっ
た。ぼく以外はね」
そう言ってまたにやっと笑ったヴァルテルは、「ヴィニェーティ・マッサ」 の将来についてこう語ります。
「21世紀にワイン・メーカーとして成功するためには何が必要か。まずは、優秀な栽
培家viticoltoreであること。次に、そのぶどうの力をワインに語らせることができ
る優秀な醸造家trasformatoreであること。そして、どんなワインを市場に問うのか
を計画し、判断できる戦略家progettatoreであること。最後に、そのワインを売り切
ることができる商人commercianteであること。この4つの資質を持っていることが不
可欠だ。
ぼくは今16.5haの畑を持っていて、潜在的には8万本以上のワインを造ることができ
る。でも、このヴァルテル・マッサという男は、今挙げた4つのうち最初の3つの資
質に関しては大したものなのだけれど、"商人"としてはからっきしでね。まだ6万本
売るのが精一杯だから、のこりのぶどうは他の生産者に売却しなければならない。ま
、これは今のところそれだけの能力しかないということだから仕方がない。
現実に、イタリアの国内市場は限られている。ワインの消費量は減少しているし、値
段の高いワインを数多く消費できるだけの購買力がないんだ。だから、必然的に、海
外市場を拡大することが大きな課題になる。最終的には、造ったワインの75%を輸出
できるだけの体制と販路を確立することが目標だね。ぼくがさっきから、国際的に評
価されるワインを造る、と言っているのは、何よりもそのためだ。ピエモンテのワイ
ン産地として、コッリ・トルトネージ地区がランゲやモンフェッラートと、モンレア
ーレ村がバローロやバルバレスコと、肩を並べて称されるようになることが必要なん
だ。
少なくとも、今日ぼくたちが飲んだワインには、それを説得するだけの何かがあると
思っているのだけれど、どうだい?」
Sono convinto. 確かに、彼の造ったワインには、彼が信じているモンレアーレ
という土地の力があふれていました。そして、それ以上に、醸造家としての彼の力量
を感じさせるのは、どのワインも、その「力」を荒々しいものに感じさせないだけの
バランスと深みを備えていることです。
4時間を超える対話(と試飲)を終えた我々が、1ダースほどのボトルを抱えてカン
ティーナを後にしたことは言うまでもないでしょう。
