「世紀の収穫年」のネッビオーロはとびきり甘かった
秋はワインづくりにとって一番大切な、収穫と仕込みの季節。収穫が進む9月半ばに なると、今年のぶどうの出来や収穫量が、何かと話題に上ることが多くなってきます。 さて、今年1997年の収穫状況はというと、これが質的には文句なしの◎。特に赤ワイ ンは「過去半世紀で最高の収穫年」といわれるほどの出来で、白も最近では傑出した 年である'90年と同じか、それを上回る水準といわれています。量的には、ピエモン テを除くと、春の開花期の寒さによる雹害などのため、例年より1割ほど少な目とい いますが、とにかく質的にはそれこそ申し分のない出来だけに、イタリア中がこの話 題で盛り上がっている今日この頃です。
この「世紀の収穫年」に立ち会わないわけにはいかない、というわけで、10月2日、 ピエモンテ州アルバ近郊、バルバレスコ地区にある旧知のカンティーナ「フィオレン ツォ・ナーダ」を訪ね、最終日の収穫を手伝わせてもらってきました。去年も寺本氏と一緒に収穫に参加させてくれたこのカンティーナは、生産量はごく僅 か(年間1万本強)ながら、質的にはこの地域で最高レベルの評価を受けている生産 者のひとつです。作っているのはわずか3種類の赤ワイン(バルバレスコ、ドルチェ ット・ダルバ、それにバルベーラとネッビオーロからつくる「セイフィーレ」という 名のVdT)だけ。しかしそのいずれもが市場で奪い合いになるほどの逸品なのです 。特に年間に2000本しか造られない「セイフィーレ」は昨年、イタリアで最も権威の あるガイドブックで、イタリア中で96本のワインにのみ与えられた「三ツ星」(実際 には三つグラスのマークで表されている)の評価を受けているほど。日本ではこのワ インに何と2万円以上の値がついているそうです。
さて、この日午後2時頃にカンティーナに着くと、迎えてくれたのはこのカンティー ナのオーナーにして醸造責任者(というか、ほとんどすべてを1人で切り盛りしてい る)であるブルーノ。事前に電話で今年の収穫状況を訪ねたときに「ベリッシマ。ぶ どうの出来は生涯最高だよ。心から満足している」と言っていただけに見るからに上 機嫌で、「おー良く来たな。ちょうど今最後に残ったネッビオーロ(バルバレスコを つくるぶどう)の収穫を始めたところだよ。去年もやったからもうどうすればいいか はわかってるよね。さあ、どんなに素晴らしいぶどうができたか、畑に行って自分の 目で確かめてくれ」と満面の微笑み。
長靴にはきかえて畑に出てみると、収穫を手伝っているブルーノの親戚のおじさんた ちの話す、訛りの強いフランス語みたいなピエモンテ方言が聞こえてきます。彼らに あいさつし、プラスチックのコンテナと剪定鋏を手に、さあ、我々も収穫開始。 ボルドーやブルゴーニュと同じ垣根仕立てに整枝されたぶどうの樹が規則正しく並ぶ 畑には、緑色に生い茂った葉の下に、黒に近い色まで熟したぶどうの房がたわわに実 っています。収穫は、腰をかがめて、地上70cmくらいの低い位置に実った房を手に取 り、その根本に鋏を入れて摘み取っては、横に置いたコンテナに入れる、という単純 作業の繰り返しで、楽な仕事ではありません。とはいえ、こちらは1日だけのゲスト 参加。「世紀の収穫」に参加していると思えば、そんな辛さはどこかへ行ってしまい ます。実際彼らがしているように、これが毎日、1カ月も続くとなるとさすがに辛い のでしょうが。摘み取ったぶどうをじっくり観察してみると、これが健康そのもの。黒々と熟した房 ばかりで、一部の粒が未熟で赤いままだとか、部分的に黴が生えて腐りかけていると か、去年時々見られた不具合(そういう場合、コンテナに入れる前に悪い部分を房か ら取り除かなければならない)は、今年はほとんどありません。粒の大きさはそれほ どでもありませんが、これは水分が少なくぶどうのエキスと糖分が凝縮している証拠 ですから、むしろいい兆候です。ぶどうを一粒つまんで口に放り込んでみると、びっ くりするほど甘い。聞けば、ぶどうの糖度は過去最高とのこと。実際、作業を続けて いくうちに、両手はぶどうの汁に含まれる糖分でべたべたです。
収穫が進むに連れて、ぶどうで一杯になったコンテナが垣根に沿って並んでいきます 。このコンテナをトラクターに乗せてカンティーナまで運ぶのは、ブルーノのお父さ ん、フィオレンツォさんの役目。カンティーナではブルーノが、ぶどうをコンテナか ら破砕機に移して絞っています。破砕機からは太いホースが発酵槽に伸びており、ぶ どうのジュースが皮とともにその中に送り込まれて、すぐに発酵が始まります。ちな みに、ぶどうの茎は、破砕時に取り除かれています。
ぶどうの糖分の高さは、ワインに十分なアルコール度数と凝縮された風味を与えるの に不可欠の要素です。ところが、糖分が高すぎるのはいいことばかりではありません 。糖分がアルコール分に変化する発酵のプロセスにおいて、発酵が進んでアルコール 度数が高くなるに連れ、発酵を司る酵母の働きは、アルコールの影響で弱まってきま す。この時に発酵槽の温度を高めに保ち、酵母の働きを助けてやらないと、すべての 糖分が発酵し終わる前に酵母が「酔って」働きを止めてしまい、ワインの中に発酵し そこねた糖分が残ってしまう恐れがあるのです。今年のようにぶどうの糖分が高いと 、その危険もまた高まります。ブルーノは、この発酵槽の温度管理にとても神経質に なっていました。発酵に失敗すれば、せっかくの「世紀の収穫」が元も子もなくなる からです。
さて、畑では収穫が続いています。ぼくも、中腰の姿勢で固まった腰を時々伸ばしつ つ、途中から参加したブルーノの奥さんと無駄口をたたきながらの作業。彼女曰く「 私たちが結婚したときは、あの人はただの高校の先生で、ワイナリーの息子のくせに ワインづくりにはほとんど興味がなかったのよ。でもそのうちに趣味でワインを仕込 み出して、気が付いたらどんどんのめり込んで、今ではこっちの方が本業になっちゃ った。誤算もいいところよ。結局血は争えないってことかしら」。なるほど、ワイン 生産者・ブルーノ・ナーダの誕生には、そんな裏話があったんですね。しかしほんの 10年で、この地域で最も評価されるワインメーカーの1人に名を連ねるようになった のですから、大したものです。
こうして4時間ほど働いたでしょうか。陽が傾きかける頃には、8列ほど残っていた 垣根もすべて収穫終了。畑から戻ってきたおじさんたちは「いやー今年も終わったね ー」と嬉しそうです。
カンティーナに戻ってみると、庭にはテーブルがしつらえており、その上には何本か のワインのボトル(もちろんここでつくられたもの)と、チーズやサラミが並んでい ました。無事終了した今年の収穫を祝って、ささやかな打ち上げというわけです。 夕暮れの丘の上で、収穫を終えた満足感に浸って、楽しく語らいながらとびきりに美 味しいワインを飲むのは、このうえない快楽です。しかしブルーノだけは、すっかり リラックスしている我々を後目に、カンティーナの発酵槽と我々のいる庭の間を忙し く往復していました。彼にとってはこれからの数日間の仕込みがむしろ正念場なのです。 こうして我々は、陽もすっかり暮れた頃、「今日はどうもありがとう。仕込みが終わ ったころにまたゆっくり遊びにおいで」というブルーノと挨拶を交わして、カンティ ーナを後にしたのでした。ちなみに、この日摘んだネッビオーロというぶどうがバル バレスコというワインになって市場に出るのは3年後、2000年のことです。どんな素 晴らしいワインになるのか、ゆっくり気長に待つことにしましょう。
1997年10月20日
片野道郎
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