大地と風と人−第2回−
ヴィジェッツォ渓谷のトラットリア
料理研修でイタリアをまわっていると、忘れられない場所、忘れられない出会いが多々ある。例えば、私たちが親しくしているエノテーカ(ワイン店)経営者のマリオと醸造家のロベルト兄弟が、いつもレンタカーを借りて連れていってくれる山の中のトラットリア。
そこはドモドッソラの街からスイスに向かう渓谷の中にあり、右を見れば遙か下に雪解けの水が流れる川、見上げれば雪で覆われた山の頂が見える道を3〜40分走っていかなければならない。日が暮れてからの山道走行はヒヤリヒヤリの連続だが、一般のイメージとはひと味違う、アルプスの山々に抱かれたイタリアを満喫することが出来る。運が良ければ野生のイノシシや鹿とさえ出くわさないとも限らない。さて、現地に到着するとトラットリアの入り口は、よくあるようにバールになっていて、これもまたよくあるように男だけが新聞を読んだりテレビを見たりしている−女は家にいるもの。バールにくるのはアバズレと相場が決まっているなどと、前時代的な考え方が通用するのは、ここと南イタリアくらいなもの−。
次の扉を開けると、そこには私たちのために長いテーブルが用意されている。 テーブルについてまず運ばれてくるのはパン。パンかごの中に入っているのはこの地方独特のライ麦パンだ。これは豊かさの象徴である小麦をここでは生産することが出来ないので、貧しさの象徴であるライ麦でパンを作るしかないためだからとか。しかし、干しぶどうとクルミを混ぜ込んだ、この街の名前のついた「コイモのパン」のなんと美味しいこと。アルプスの山に積もった雪が村に清らかな水をもたらし、その水で作るから特別の味がするのだそうだ。
お次は、ロベルトの作ったワイン「ドルチェット」、日本でもてはやされているような樽香のしっかりとついた、コクとまろやかさが売り物の高級ワインではない。山仕事に疲れた男が、暖炉の前で固くなったパンとラルド(豚の背脂の塩漬け)を噛みしめながら、喉をしめらすために飲むといった方が似合うワインだ。陶器製の壺から厚手のワイングラスに注ぎ入れ口に含むと、何にも加えないブドウだけで作った素朴な味がいっぱいに広がっていく。さて、待ちに待った『イタリア風前菜(Antipasto all'italiana)』サラミなどの盛り合わせだ。材料も豚だけではなく、イノシシや山羊、馬肉と各種豊富、しかしなんといっても圧巻はこの地方で作られる生ハムだ。生産本数が少ないので出回るのはせいぜいミラノ止まりだが、そのミラノでかのパルマとサンダニエーレと比べる機会を得たとき、満場一致で『最高』のお墨付きをいただいたのがこのヴァルヴィジェッツ ォの生ハムだった。
プリモピアットはなんと言ってもこの地方独特のニョッキ。山の中なので使える材料に限りがあるため、ジャガイモだけで作るというわけにはいかず、もっぱら栗がその量を増やす食材として使われるが、独特の風味があり生の栗が手に入る頃にはぜひ試してみたい料理だ。ちなみに季節はずれには栗の粉を使用することもある。
ここまでくるとおなかの方もかなり一杯になってくるのだが、真骨頂はセコンドピアットとして運ばれてくる数々の肉の煮込みにある。ドーンと運ばれるポレンタを銘々の皿にとりわけ、小鉢に入れられたウサギ、ロバ、イノシシ、シカ、カタツムリ、馬肉の煮込みを少しずつ取る。初めて食べる食材にギョッとしてはいけない。ポレンタととともに口にいれれば、しみじみと山の生活を体感できるのだから。そして、最後を締めるのは山の香草で作った食後酒とアルコール度数40度のグラッパだ。
ほろ酔い加減で底冷えする屋外に出ると、月明かりの中に雪山が驚くほど近くに見える。 村はずれの教会まで歩きつつ満天の星空を見上げ れば、日本を遠く離れて自分がここにいるのが不思議な気がしてくる。火照った頬に山の空気がさわやかだ。研修生の胸にまた忘れられない時が刻まれた。
