STAGE3  バラティエ  甲板の物音にヤソップとベックマンはほぼ同時に立ち上がっていた。  ベックマンの手が反射的に船長へと伸び、そのまどろみを破る。  木の床を踏み鳴らしてデッキへ出ると、夜の海がわずかな灯りさえ呑みこむその縁に、三人の目は同時に引きつけられた。  「おいっ、鷹の目!どうした」  甲板に倒れていたミホークをシャンクスが右腕で助け起こした。だがその体にはまるで力がなく、剣を振るう最強の右腕が糸の切れた人形のように甲板に落ちてぱたりと音をたてた。  「鷹の目サン!」駆け寄ったヤソップが肩をつかむ。シャンクスの隻腕では支えかねると見て助けようとしたが、完全に意識を失った体の重さはヤソップにとっても予想以上のものだった。  ミホークの頭が、ヤソップのひょろりと細い腕からずり落ちてのけぞる。海をゆく男とは思えないほど青白い喉が防備に晒され、ヤソップは思わずそこへ見入ってしまった。  「なんてこった」少したってからそう言うのがやっとだった。それこそ世界中の、腕に覚えのある男たち が、そして女たちも、あわよくばこの男を倒して世界に名を挙げたいと死に物狂いで追いつづけている世界最強の剣士がこんなことになるとは。  「鷹の目……」  低い声に振り向くと、白いコック服のままのオーナーゼフがいつのまにか出口際に立って見ていた。  「ゼフの旦那!」  その時、不意に強い海風が吹きつけて、ゼフと彼らの間を激しく遮った。海面を叩き舞い上がった風に乗って、潮の飛沫が甲板と五人の体を打ちつけ音を立てる。ヤソップはミホークの上に覆い被さってそれをやり過ごした。  「バカが」義足の音が近寄った。「とうとうドジ踏みやがったか」  「旦那」ヤソップが振り仰ぐ。「鷹の目サンはどうしちまったんスか?」  「向こう側で捕まったのさ」  ゼフはかがみこんでミホークの頬を数度叩いた。やはり反応はなかったし、本人が無事ならそんなことはゼフにもできないことだろう。  シャンクスが言った。「どうするよゼフ。鷹の目はあんたに任せろって言ってたぜ」  「俺に?」  「ああ」シャンクスは苦く笑った。「どうも俺じゃ頼りにならんらしい。何かあったらアンタを呼べと言ってた」  ゼフが眉間にしわを寄せた。心底意外な言葉であったらしいとシャンクスは思った。  「どっちにせよ」ゼフは言った。「ここには置いておけん。俺の部屋にでも運んでくれ」  今度はシャンクスが眉を寄せた。義足のゼフにも困難なことだったが、同時に隻腕の自分にもそれは無理なことだった。今まで鷹の目の体を抱えていたヤソップもピストルを扱うその腕がミホークを落っことすほどやわにはできていないにせよ、自分よりふたまわりも大きな男の意識のない体を持ち上げるのには四苦八苦している。  「代わろう」  結局その仕事をおったのは鷹の目よりも大柄なベックマンであった。ヤソップの手から受けた身を彼は軽々と抱え上げて歩き出す。ヤソップが思わず口を尖らせたのをシャンクスは見た。  「俺たちは」シャンクスはヤソップに言った。「あの灯を持っていこうぜ」  騒ぎを聞きつけてきたコックたちも事に気付いてざわめいていた。飲み過ぎ食い過ぎで倒れるたぐいの急病人や、いろいろな事情で出る怪我人といったものはこの店には珍しくもなかったが、倒れたのがあのミホークであるということと、何よりオーナーゼフが客人を自室に呼び、おそらくは自分のベッドを貸すだろうということが前代未聞の珍事だった。空いている部屋やベッドはこの船にはいくらでもあるのだ。  「おい」  従業員たちがびっくりして首を引っ込める。当のオーナーゼフが振り返っていた。「鷹の目の刀はクロークか?」  「あっ?ハ、ハイッ!」  「俺の部屋に持って来い」言ってゼフは再び歩き出した。  ハイ、オーナー!という声で、刀一振りには多すぎる人数が走り去っていった。  そうして自室の扉を開けたゼフが、そのまま扉を押さえてベックマンと、シャンクス、ヤソップを促した。  室内は置かれている物こそ少なかったが、かわりに置かれている物すべてに意味という名の過去が備わっていた。それらは敵船から奪ったものを要はありあわせで並べて過ごす海賊の部屋とは違った空気を積み重ねているように、赤髪海賊団の面々には思われた。  ゼフが言った。「鷹の目はベッドへ寝かしてやれ。ブーツは脱がせて、服も緩めろ」  ベッド脇のテーブルにろうそくの灯を置いて、ヤソップがミホークの世話をしたが、その意識はやはりまるで戻る様子がなかった。  そうしてベッドに沈んだ体を赤髪の一団とゼフが頭を寄せ合って覗きこんだ。  「ゼフよ」とシャンクス。  「ん?」唸るような声が返る。  「このあと、どうするんだよ」  「知らん」  「なんだそりゃ」  「これは鷹の目一人の戦いだからだ」  「何が起こったか、それに何が起こっているのか、アンタは知ってるのか?」  ゼフの青い目は会話の間じゅうもミホークから離れなかった。そんなに見てると穴があくぜと言ってやりたかったが、それは呑みこみ、ややくすんだ金色の三つ編み髭を睨むだけにする。  「起こったこと、か」ゼフは椅子を引きよせて座った。「こいつは、いやこいつの魂は今、迷いの海にいる。はじめはここからあっちへ自分の念と、俺たちの念を一緒に飛ばしていたのだろうが、それが向こうでバレて、しかもとっ捕まったせいでこっちの魂が引っ張られたんだろう」  「こっちとかあっちとかって」シャンクスの手があごひげを撫ぜる。  ゼフも髭へ手をやった。「しかしその程度のことならこいつも予想できたはずなんだ。何と言ってもあっちは海の悪魔の本拠地なんだからな」  「海の悪魔?」ヤソップとシャンクスが同時に返した。  ゼフの目が睨んだ。「お前ら、知らなかったのか」その髭がため息で揺れた。視線は自分のベッドに眠るミホークの、閉じられたまぶたのあたりへ戻っていった。  「迷いの海ってのは、言うなりゃ海の悪魔どものレストランだ。てきとうな船を見つけては引きずりこんで、船乗りたちの魂の嘆きを食って喜ぶ。船は捕まったが最後、出る方法はひとつしかないというし、どだいが自力で脱出できたヤツの話なんざ聞いたこともねえ」  「しかしさあ」シャンクスが継ぐ。「何もすることがねえって言って、ただこうして雁首並べてるってのも気にくわねえよ。だったらどうして鷹の目はアンタを呼べなんて言ったんだ」  「それがわからんからこうしている」  「すまん」  きゅっ、とゼフの目が細くなった。「だが赤髪の言うとおりだ。コイツはとっつかまって向こう側に連れていかれても、ここへ戻って来れるための手だてを何か用意していたはずなんだ。それが分からなければ俺たちにできることは本当にねえ」  ガタガタと窓枠が鳴っていた。風が出ているのだろうが、そのわりに波はさして高くないことは床から知れた。違和感がつのった。  ゼフが目を閉じた。「やはりコイツから離れるべきではなかったか」  ろうそくの灯が不意に大きく激しく揺れた。風は室内にまでは入りこんでいないのにどうかすると消えそうになる。ヤソップが手で包むようにするとその揺れはやがておさまった。  「そう言えば」ゼフが顔をあげた。「さっきダイニングを通ったら妙な匂いがしたぞ。お前ら、その灯で何か燃やしたか?」  「ああそれなら鷹の目が」シャンクスが応えた。「なんか、イヤな臭いのする粉を」  「粉?ならやはりあれは詩人の灰だったのか」  ゼフは立ちあがり、壁に吊るしたミホークのコートを探った。内側のポケットから革の小袋が出てきたのを、すぐに開いて中をあらためる。  「鷹の目はこれについて何か言ったか?」  「いや」  「何故だ」  「何がだよ」  だがゼフの答えはなく、ただその目がシャンクスをじろりと睨んだ。  「この粉を使ったとき、鷹の目はなんの話をしていた」  「話?覚えてねえよそんなモン」だが言いながらシャンクスはちらりと副長を見た。  ベックマンは肩をすくめた。「アンタがヤツと話してたんだろう?ヤツの身に何かあったらその時はどうしたらいいかって聞いてたじゃないか」  「そうだっけ」  「で?」とゼフ。  ベックマンは両手をズボンのポケットに突っこんだ。「そうしたら鷹の目が『その時はゼフを呼べ』と答えた。それでウチのおかしらがちょっとむくれたのを見て」  「俺はむくれちゃいねえよ」  ベックマンが珍しく笑った。「ま、とにかくそのあと鷹の目がその袋を出して粉を一つまみ燃した」  ゼフはその言葉を、頑丈な顎で噛み砕くようにうんうんと頷いていた。そこまでは合ってるぞ、と言っているようなそぶりだった。  「で、赤髪はその時どう思った」  「俺はべつにむくれちゃいないよ」  「違う。粉だ。詩人の灰の燃える匂いをかいだ時」  「匂い?」シャンクスは首をひねった。  「イヤな臭いだったと、さっき言ったな」  「あ?ああ」  「詩人の灰でイヤなにおい。嫌な気分……」  ゼフはミホークを見、そしてシャンクスを見て、はっと思いついたような目をした。「もしやお前」  プッ、とゼフが噴き出した。すぐに拳で隠したが遅かった。「いや、なるほど」  「なんだよ」  だがゼフはシャンクスを無視して、おもむろに自分のベッドのふちに腰を下ろし、そこに眠るミホークに視線を注いだ。  その大きな手のひらがミホークへと伸び、黒い髪をゆっくりと掻き上げる。  「バカが……」  なんでそんな芝居臭いことを、とシャンクスは訝る。しかもそれはシャンクスに見せるための芝居だということがひしひしと伝わってくるではないか。  「成程な」ゼフは立ちあがった。「鷹の目の言いたいことはわかった」  「説明する気はあるのかよ」シャンクスの口元が歪む。  「ない」  ベッド脇のテーブルの上でろうそくの火はまだ燃えていた。ゼフは自分の掛けていた椅子をその横へ、ミホークの顔の見える位置に置く。  そしてピッとその座を差してシャンクスを促し、その手に駄賃でも載せるように小袋を渡した。  「鷹の目がお前を選んだということは分かった」ゼフが言った。「お前さんの部下たちにこの部屋を出るように言ってくれ。もちろん俺も出る。そしてお前さんはその粉を全部火にくべろ」  「理由は教えちゃくれないわけか」とシャンクス。だがゼフも悪びれもしなかった。「それは諦めろ。だが鷹の目にはお前がついててやるんだ。途中で寝ちまっても構わんがその椅子からは離れるなよ」  いいな、と聞かれてシャンクスも頷くしかなかった。  ヤソップとベックマンを追いたてて、ゼフは戸口まで下がった。「その粉を、ちゃんと燃やすんだぞ」  「あのさあ」シャンクスの腰が浮いたがゼフが睨んで戻らせた。仕方なく座ったままで発言を乞う挙手をする。「窓、開けてってくれないかな。オレ、コイツのにおいキライなんだよ」  「ダメだ」だがゼフはニヤッと笑って見せた。「心配するな。今度はいい匂いがする」  パタンという音でシャンクスは一人になった。いや、ベッドに眠る鷹の目と二人きりにされたんだ、と思いなおす。  シャンクスはミホークを睨んだ。ミホークの髪はゼフが撫でた時の形のままであった。 STAGE3  ベックマン  ゼフの部屋を出たあと、ベックマンはデッキで煙草に火をつけた。  世界を極めた男の体はやはりきれいだった。無駄がいっさいなく、均整が取れ、骨も筋肉も完成されている。ベックマンにとって美とはそういうものだった。それはただトレーニングを重ねれば手に入るものでもなく、天に恵まれさえすれば努力が要らないというものでもない。力だけならあるいは自分のほうが勝っているのかもしれないが、十回剣を合わせれば十回負けることはあの男と初めて会ったときにもう分かっていた。著しく劣っているとは思わない。筋力のほかにも勝っている部分はある。それでも他の多くのものが追いつかず、トータルで負けている事実を否定することはできなかった。  少しばかり、ちりちりと燃える心がないわけでもない。  だが、だからこそ、とベックマンは目をすがめる。今日のようなことはあってはいけない。  あのとき自分はミホークの首にナイフをすべらせたいという欲求に翻弄された。ヤソップに替わってあの体を持ち上げた瞬間からそれが嵐のように暴れるのを抑えがたかった。コップの中の嵐ではあったが、自分がいたのはまさにそのコップの中で、もう少しで渦に呑まれるところだった。  力に生きるものは熟睡しない。敵意を、とりわけ殺意を持って近づく者がいれば必ず目を覚ます。世界一の剣豪ともなれば言うまでもないことで、そしてまわりもそれを分かっているからどこか安心している部分がある。自分にはできっこない、考えるだけ無駄だと。  だが、そうではない瞬間が訪れたとき、自分にもできるのではと思ってしまったとき、人の心は乱れる。  俺は、とベックマンは苦い思いを認める。あの時、俺は確かに殺意を抱いていた。  あの男の胸にナイフをそっと沈めたら、それだけで歴史が動く。高度な一撃でなくていい、抵抗もいっさいない。あるいはたださくりと首の皮一枚でも切ってやれば、あの世界最強の男は自らの血の海に沈み二度と浮かぶことはないだろう。是非はあってもそれは子供にもできる簡単なことに違いない。  だからこそ、それがどうしようもない誘惑となって、体の底から己の心を突き上げる。あの時、煙草でも吸えればまだよかったが、ゼフの部屋ではそうするわけにもいかず、衝動に血が猛るまま、なすすべがなかった。  自らの死が歴史に影響を及ぼすのなら、そういう男はあんなふうに昏倒などしてはいけない。その生死が自由になるのではないか、などと無為な欲望を弱い者に抱かせるようなことはあってはならない。  苦い夜だ。暗いデッキの上で、煙草の火だけが色を持っている。俺の欲望の色だ。その証拠に息をすると色が強くなる。  振り仰ぐと一つ上のデッキにゼフの部屋の窓が見えた。くらくらと揺れて留まらない、あのろうそくの灯が窓から漏れている。  ベックマンは目を閉じた。  シャンクスを残してきたのでなかったら、今すぐにでもこの船を逃げ出したかった。しばらくはあの男の顔も見たくない。  あの殺意は性欲に似ていた。  ベックマンは煙を吐き出した。 STAGE3  ヤソップ  神は信じぬ身だったが、こういう時には神を思うことがある。  ヤツは時に底意地が悪いと。  救いの手を差し伸べるどころか、人の努力やはかない願いを嘲笑うことばかりする、それが神というヤツの正体だ。  ヤソップは灰白色の煙を吐いた。手には副船長にもらった煙草があった。  普段は吸わない。だが今夜は別だった。副船長も何も言わずに一本くれて立ち去った。  だが、闇の向こうに小さなオレンジ色が明滅するのが見える。時に窓を見上げているのが離れていても知れる。シャンクスがここにいる以上、二人とも自分たちの船へは戻れなかった。ゼフが彼の部屋に近いところの空き部屋を提供してくれたが、そこにいる気にもならないのは仕方がなかった。  煙を吐く。胸が痛んだが強い煙草のせいではない。  鷹の目の男が  ヤソップもゼフの部屋の窓を見た。彼が倒れたことは自分にも責任の一端がある。こうなる危険を承知の上で彼に頼んだのだ。  息子を救いたい。だがその願いが恩人に危険をもたらしている。  ヤソップは目頭を押さえた。俺のこの思いが罪なのか。何十回と繰り返す問いにミホークからの答えはまだない。  しかしなぜ、とまた別の問いが蛇のように鎌首を持ち上げる。なぜあの男は、あの鷹の目のミホークは、現れるたびにこんなにも俺の心を揺さぶり、涙まで流させるのだろう。  心が、痛む。  神は底意地が悪い。最後の煙を吐き出してヤソップは煙草を海へ捨てた。  それでもやはり神に祈るほかにないことがいちばん悔しかった。 STAGE3  ゼフ  自分の部屋をミホークとシャンクスに渡した後、ゼフはねぐらをサンジのベッドに決めた。  今は迷いの海にいるその部屋のあるじのことを考える。不器用なガキだ、と思う。  高いコック帽をデスクに置いてベッドに体重を預けたが、横になる前に少し自分の部屋の方を見た。  シャンクスは今ごろ詩人の灰にやられて幻の中にいるのだろう。あの粉は間違いなくシャンクスのために用意された小道具だ。ミホークが、あの海賊に襲われた客船と一緒に現れなかったのはなぜかと思っていたが、あの粉を買い求めるためにどこかの港へ寄っていたのだ。  協力を申し出たシャンクスを無碍にして、お前よりゼフを頼ると宣言したのは、シャンクスを故意に不快にさせるためだ。そしてそれをはかって詩人の灰の煙をかがせる。  増幅した念は嫉妬だ。  だがその嫉妬こそは、愛と同じかそれ以上に強い念を生む。愛と憎しみはその相手しか目に入らなくなるという意味においては同義だ。そしてミホークはシャンクスの心を自分に縛りつけた。  恐らくは向こう側へ、迷いの海へ連れて行くつもりなのだろう。自分一人では戦いきれぬ相手と知って彼は道連れを仕立て上げたのだ。  そんな小細工で人の心をもてあそぶとあとでしっぺ返しをくらうぞ。  窓の外を見、部屋へ視線を戻すと不意にジャメ・ヴ(未視感)に襲われ、ゼフは目を閉じた。  夢の中でなら心はどこへでも行ける。あやしい粉など使わずとも思いは自由に行けるものを。  鷹の目もまだまだバカだなと思いながら、ゼフはコックコートを脱いだ。  それだけはいつもと変わらない、ゼフの一日の終わりであった。 STAGE3  シャンクス  粉はすべて燃えた。  ゼフが言ったとおり、今度は妙に甘い匂いがした。  シャンクスはミホークを見た。  ヤソップを打ちのめし、ベックマンをただならぬ殺意の海に突き落とした体が横たわっていた。船を統率する身としては、部下の心をかき乱す存在は要注意だ。彼らが部屋を出るときに、厄払いに肩を叩いてはやったが、本来が有能な男たちだからと思わず、もう少し言葉などかけてやるべきだったかもしれない。言葉はただのジョークでも充分だったし、あるいは先に船に戻れと命令するのでもよかったはずだ。いつもの自分ならできたことができなかったということは、自分もまた何かに引きずられているということなのだろう。  何か、と自問してシャンクスは笑った。そんなものは決まっている。 つと手を伸ばし、シャンクスはミホークの首を掴んだ。二人の部下の意趣返しのつもり、と思った。指と手のひらに頚動脈の大きな拍動が伝わってくる。が、眉はぴくりとも動かない。このまま力をこめてやろうかと、副長に似たことを考えて、ミホークの顔を覗きこむ。  その瞬間、赤い目が、カッと開いてシャンクスを捉えた。  同時に腕が、シャンクスの体に回って引きつける。  まずい、とシャンクスの本能が言ったがもう遅く、赤い髪がミホークの胸の上に散った時にはもう力が抜けていた。  シャンクスはそのまま意識を失っていた。 STAGE3  ミホーク  参ったな、とミホークは思った。  身動きが取れなくなった。自分が身を置いていられる場所はただ一ヵ所、床だか地面だかも定かでない足元に描かれた円の内側だけだった。  「あんた、大丈夫かい?」  隣にいるのは最初に夢で会った女。その目に迷いや弱さをかけらも持たない、まっすぐな強さが印象深い。くわえ煙草と担いだ長銃がよく似合っていたが、どちらも飾りではなかった。  ミホークと女が入っている円は彼女が描いたものだった。ゾロの救援に向かっていて名を呼ばれ、倒れたところをすくいあげた彼女がとっさに円を描いて閉じたのだ。女が何者か知らない鬼たちはその円の中には入れなかった。  そしてこの中が彼女の場所である証拠に、彼女の煙草には火がついていた。煙とともに息を吐けば鬼たちは逃げるほかになかったし、火を近づけられることはてきめんに嫌がった。  「ともあれぬしには感謝する。危ないところだった」ミホークは右手を差し出した。  女はガッチリとそれに応えた。「おかげでやっとこうして会えたじゃない」  ミホークは握手の手を上向けて女の手の甲に優雅な接吻を尽くした。「以前、我が寝床でお相手申し上げたはずだがもうお忘れか?」  あはは、と女が気持ちのいい声で笑った。「そうね。私があんたを押し倒したんだったわ」  おい女!とミホークの肩越しに鬼が顔を出した。「この男、お前によからぬ思いを抱いておるぞ、教えてやろうか聞きたいか」「こいつの視線がお前の体に巻きついているぞ、まったくもって厭らしい」「何をするか分かったものではない、今すぐ蹴り出せ俺たちが食ってやろう」  女は銃を振り上げて有無を言わさず撃ちぬいた。銃身はミホークの肩に乗せられていた。  銃はそのままで、女が片目をつぶってみせる。ミホークも身じろぎもせず、鷹の目で笑ってみせた。女はひるみもしなかった。  「しかし困ったね」女が言った。「あたしはあんたをあっちへ送り返してあげることができないんだ」  「なに、こうして守ってもらえればそれで充分」  「帰り道にあてがあるの?」  「なきにしもあらず、というところかな」  「待つしかないってこと?」  「いかにも」  とはいえ、この円の中で目覚めてからどのくらいの時間が経ったのか、まして目覚めるまでにどれほどの時間が過ぎたのか、ミホークには知るすべがなかった。この世界で分からないということは元の世界に至ってはまるで見当がつかないことになる。一分か、一日か、あるいは百年か。  「そういうことはさ、考えない方がいいよ」目は合わさずに女が言った。「ヤツらにひかれるから」  「そうだな」  女はポケットから小さな瓶を出した。コルクが開くと強い蒸留酒の香りが立ちこめる。女の唇に琥珀が染み入るのを見てミホークは自分の喉が貼りつくほどに渇いていたことに気付いた。  「ぬし、それをひとくち俺にくれぬか」  えっ、という顔で女がミホークを見て、そしてあわてて瓶にふたをした。「あんたこれが見えたの?ごめんね、これはこっちの世界のものだからあんたにはあげられないんだよ。こっちのものを口にしたら二度と向こうへは戻れなくなっちゃうから」  女はジャケットのポケットへそれを押しこんだ。「ごめん。見えるとは思わなかったの」  「いや構わぬ」  「でもつらいでしょ?目の前に見えているものを我慢するのは」  「ぬしが気に病むことはない」  煙草の火が弱くなり、闇が濃さを増した。煙草はだいぶ短くなっていたので、女はそれを足元の黒い地面へと押しつけた。  闇を得て鬼たちが騒ぎ出したが、マッチの火がぼうと上がってすぐに新しい煙草に火がつくと騒ぎはおさまった。女にもミホークにも変化は何も訪れなかった。  おいミホークよ、と子鬼がひょうたんを振り上げた。「酒ならあるぞこれをやろう、こっちへ来い」「ミホーク、こは人の血よりもうま酒なるぞ」「寿命が千年延びる神酒を試せやミホーク」 ざわざわと声が重なり合って耳に痛くなるのを女が銃で追い散らすが、それも次第にキリがなくなり、無視を決めこむ。  そうしてまたどれくらいの時が過ぎた頃か。ミホークは黒いコートの裾をかき寄せた。  「寒いの?」女が尋ねる。  「少しな」ミホークは隠さず応えた。  女が、花の刺しゅうの袖に包まれたミホークの堅い腕に触れた。「ごめんね。私はあっためてあげられないの」  だがミホークは女を抱えて胸へ寄せた。その顎の髭が女の額に触れた。  「しばし」ミホークの声が膚を伝って女に響く。「このままいてくれぬか。ぬしは温かい」  ぎゅっ、と女の腕がミホークの背中へ回った。回ったが抱えきれない体が大きな木のように思えた。  「ありがとう」女が呟く。「あんた、いい男だね」  「ぬしもいい女だ」言ってくくっとミホークの体が揺れた。  「何?」  「いや」ミホークは闇を見据えたまま。「ぬしとは気が合うようだから、いよいよとなったら、いっそぬしとともにゆきたいと思ったのだが」  ぷっ、と女が噴き出した。「それ、プロポーズ?」  ミホークの顔は見えない。女は首を振った。「あんたにはまだ役目があるよ」  「だろうな」ミホークの声が闇に溶ける。その闇の先に一瞬だが白い刃の切っ先が光り、緑の色の短い髪が茫と見えた。  「あの坊やが待ってるじゃない」  女の声に反応するように、闇の向こうでロロノア・ゾロが閉じていた目を開けた。こちらが見えているのだろうかと思い、しかしそうではないと知る。  ただ、またいつの日か会いまみえようぞ、と心の中で祈った。  その時。  何かに呼ばれたような気がしてミホークは目を凝らした。様子に気付いた女も顔をあげる。  「どうしたの?」  「静かに」人差し指を立てたミホークの目が鷹の鋭さを帯びる。瞳の赤が濃く深くなり、黒髪がざわざわと鳴った。  「来たか」ミホークは立ちあがった。女も視線をたどって闇を見た。  赤い色が揺れていた。  「髪……赤い髪?」女が呟く。  ミホークが頷いた。「いかにも。見まごうはずのない赤髪よ」