STAGE2  バラティエのダイニング  酒瓶がまた一本、空になった。  夜は更けていたが、これで意外と話題にはことかかず、赤髪海賊団の三人とミホークの間に声が途切れることはなかった。  シャンクスはルフィと出会ったころの話をし、ガキの頃の俺にそっくりだったとくすぐったそうな笑顔を見せた。  ヤソップは息子ウソップが生まれた春の日のことを語り、その間にワイン二本を一人で空けた。医者が間に合わなくて、俺のこの手で取り上げたんだぜと、普段はピストルを握る手をかざしてヤソップは目を輝かせた。  ミホークの話は彼らに比べてグッと最近のことで、舞台もまさにバラティエでのことだった。ルフィとウソップと、ゼフとサンジの登場するその戦いの話は、ことの経緯は前回ミホークがシャンクスをその根拠地の一つへ訪ねたときに語ったとおりだったが、そこにミホーク自身の感慨が混じって語られたのが珍しいことであった。  話が一段落したところで、シャンクスが大きなあくびを一つした。  ミホークがそれをじろりと見た。「ぬしの欠伸は猫あくびだな」  「?」  「舌が伸びていた」  「なんだよそれ」シャンクスががっくりと大げさに肩を崩して見せたがミホークはにこりともしない。  「それと赤髪よ」  「今度はなんだよ」  「上の奥歯に虫歯があったぞ」  「えっ、ウソ」  その瞬間、シャンクスはミホークに舌をつままれた。ウニャッと、猫のような間抜けた声でシャンクスはその舌を反射的にひっこめ、ミホークの指をかんでむせった。「あにすんだコノヤロー!」  ははは、とミホークがはじめて声を上げて笑い、逃げるように立ちあがった。  二、三歩行きかけて、振り返る。  シャンクスの眉が上がった。「何だよ」  ミホークの赤い瞳にろうそくの灯が映って色を濃くする。薄い唇がわずかに開き、艶やかな笑みの形になったが、結局何も言わずに黒いコートの裾がふわりと翻り、ダイニングから消えた。  「だからなんなんだよ」  シャンクスが唸った。 STAGE2  ミホーク  ダイニングからデッキへ出ると風が心地よかった。少し前から体が熱を帯びたようになって、頭の奥が茫としていた。  夜の闇に隠れて、額に手のひらをおしあてる。軽い眩暈をそれでもみ消そうとしたがうまくはいかなかった。  手すりにもたれて目を閉じる。何人もの声が頭の中に響いている。そのうちのせめて一つにでも意識を集中したかったが、それがいつになく難しかった。  薄く開いた目でぼんやりと夜の海を覗く。意識を収斂して、己が力を少し丸めた背から伸びる翼の形へとイメージする。  翼が、大きく広がった。  飛べる。  意識が、体をその場に残して飛翔する。肩が少し重いのはそれだけの念を背負っているからだ。  暗い海の闇を水底へ。意識の落下するに任せてゆく。見えないものを見るために目を瞑る。そうするとやがて見えてくる。  羊の頭の船が、波のしじまに停船している。船上に人影はない。  ミホークは右手を延ばした。黒刀が、その手に現れた。闇よりも濃い刃が光り、ミホークの意識をはっきりと呼び覚ます。  海を渡って、やがて白い石の浜へと下りた。  靴が石を踏む音を聞きながら進む。すると突然、ミホークの視界にそれらは一気になだれこんできた。  囚われた魂たち。  そして彼らをもてあそんではいやらしい笑みを浮かべる海の悪魔の眷属たち。  足元に広がるのは白浜ではなく、おびただしい数の白骨。絶望。悲鳴。嘆き。呪詛。怨嗟。涙。息。汗。血。唾。尿。糞。精。  その沼の中へ沈みかけた足を引きぬき、ミホークは黒刀を振るった。人の思いの最下層を覗いてしまったのだと気づく。  ここではない。少なくともこの最下層ではない。  名前どおりの鷹の目で、遠くまでを見渡してみる。  見えた。  黒刀を背中へ戻して、ミホークはそこへ飛んだ。 STAGE2  シャンクス  「鷹の目のヤツ、顔色が良くなかったな」  静かに閉じられた扉でなく、手許のグラスの底に残った赤い雫を見ながら、シャンクスは呟いた。  じろりと目だけで副長が応える。煙草を口から離して陶製の灰皿に置いたあと、ギシッとその椅子の背を軋ませた。  シャンクスが言った。「どう思うよ」  「どうも」とベックマン。  「赫足はどうしてるのかな」  「さあな」ベックマンの口の端が歪んだ。「気になるのか?」  「いや別に」  「してるな」  「してねえ」  間。  赤い髪がほんのひとすじさらりと動く、その音さえ聞こえそうな静けさが、シャンクスとベックマンの間に身を延べた。バラティエに並んでシャンクスの船も碇を下ろしているのだから、周りには百を超える人間がいるはずだが、内も外も音らしい音はなく、風さえ吹き渡りはしなかった。  シャンクスは砲術頭のヤソップを見た。シャンクス自身は親ではないから彼の気持ちは想像するより他にない。しかし酒に酔えばいつも妻と息子の話を持ち出し、彼らへの思いを語り出すヤソップを憎く思うことなど誰にもできないだろうとは思う。  鷹の目のミホークはルフィのゆかりの者に自分を指名した。そのことを考えてみる。なぜ俺なのだ、と感じたのも事実だ。もちろんルフィのことは可愛がっていたし、今でも時に無性に会いたくなる。だがシャンクスはルフィとの間にヤソップと彼の息子のような血のつながりを持たない。  そうだ、ルフィは自分のことはあまり話さない子供だった。  ただひとつ、「俺は海賊王になる」というでっかい夢のほかは何も語らなかった。ならばそれがルフィのすべてなのだろうとシャンクスはどこかで割り切っていたのかも知れない。とてつもなくでかい夢。だからこそ、それ一つがあれば必要充分だったのだ。  大きな夢を追う者が孤独なのはそういうわけなのかも知れない。  ヤソップが、長く閉じていたまぶたを開けた。深夜をとっくに回っていたが、彼はやはり少しも眠気らしいものを見せてはいなかった。  しかし俺は眠いぞ、とシャンクスは内心でぼやく。  「おかしら」染み入るような副長の声。「寝るか」  「うん」シャンクスはピンク色のテーブルクロスの上にべたりと身を預けて、ふうと息を吐いた。  ふっとろうそくの灯が消えた。  だがシャンクスは気付かない。ろうそくは彼の顔の向きとは反対側にあった。  シャンクスは、テーブルをとおして耳に届く不思議な音に心を惹かれていた。乾いた木の音と重い靴音が交互に鳴っている。  ゼフの足音だ。  どこか上の方のデッキでゼフがまだ起きているのだ。  さらに耳をすませてみる。コトリと小さな音がした。今度は義足ではなく、もっと軽い何かだ。  写真立てだ。写真立てを棚か机に置いた音だ。赫足の足技と料理の腕の両方を引き継いだという少年がそこに写っているのに違いない。  ふと、シャンクスの目に光景が一つ映った。目を瞑っているのに見えるというのもおかしな話だが、それでも見えるのだからこれはもう見てやるしかないとシャンクスは心の中で笑った。  ゼフの後ろ姿が見えた。やはり思ったとおり、そばの棚の上に写真立てがあり、ゼフの視線はそこにあった。名推理だったと思いながらさらに近寄ってその肩越しに覗きこむ。あのゼフが心をかける少年とはどんな姿なのだろう。  あ、とシャンクスは息を呑んだ。そこに写っていたのは少年ではなく、鷹の目のミホークであった。そして彼の隣に写っているのは、ゼフだ。  二人とも微妙に髭の形が違う。何よりその容貌は二十年はさかのぼろうかというくらい若く、表情も明るい笑顔に溢れていた。  おいおい。  ゼフは、写真の中のミホークに見入っていた。  なんだよそれ。  その時、ガタンドサッ、と大きな音がした。  直後、ボンと肩を叩かれてシャンクスは夢から覚め戻った。肩を叩いたのはベックマンで、彼はヤソップとともにもう立ち上がって戸口へ向かっていた。  「なんだ?」  シャンクスも立ち上がって続いた。  表のデッキで目にしたのは倒れ伏すミホークの姿だった。ギュッと胸の奥を掴まれたような気がした。 STAGE2  ヤソップ  宵っぱりの性分ではなかったし、どちらかといえば早寝の部類だったがさすがに眠る気がしない、とヤソップは思っていた。  胸が、時に強く鼓動する。締めつけられるような気がする。  ミホークがダイニングを出てもヤソップの緊張は解けなかった。副船長は相変わらずの鉄面皮だったが、船長は分かりやすく、もうかなり眠いようだ。  案の定、シャンクスはテーブルに突っ伏してしまった。寒くはないが何か上掛けでもあった方がいいかもしれない。とはいえシャンクスも大人なのだからと何も言わずに放っておく。  その時、ろうそくの灯が消えた。  シャンクスの寝際のため息があまりにもうまくはまったが、顔の向きは逆だから彼のせいではないのだろう。ヤソップはちょっと可笑しく思いながら音は立てずに腰を上げ、ポケットを探った。マッチがすぐに出てきた。  火の番を、というミホークの言葉どおりに、消えた灯を点けなおす。マッチを擦る音よりも、じりじりと芯の焼ける音のほうが耳障りだった。  灯は風もないのに激しく身をよじり、時に消えかかるほどだったので、ヤソップはしばらく目が離せなかった。ミホークが先刻かけた粉がまだ残っていたのだろうか、じわりと火が大きくなり、空気に甘たるい匂いが漂った。ヤソップは鼻がひくひくするのを感じた。  鼻といえば、とヤソップの心に妻の面影が甦る。面白い鼻の女だな、というのが彼女への最初の印象だった。面白おかしいというのでなく、むしろかわいい鼻だと思った。鼻ぺちゃの自分と彼女の間に子供が生まれたら、鼻は彼女の鼻に似てほしいと、会ったその日にいきなり考えてしまった。  やはりあれは自他共に認めるとおりの、一目惚れというヤツだったのだ。  はたして彼女と自分は結婚し、彼女と同じ鼻を持つ息子を授かったが、自分は今どこにいるかと問えば妻の隣でもなければ息子の傍らでもなく、見果てぬ夢と心中の格好で海賊稼業だ。  しょせんは祈ってやることしかできない男だ。  夢を預けた大頭のシャンクスは、今はテーブルで本物の夢の中。大きな器の男だし、何より一緒にいて気持ちのいい男だと思う。だから彼のもとにいる。  あるいは息子も、とヤソップは目を細めた。自分と同じ思いで海にいるのかも知れない。夢を追って、仲間を得て。  しかしそれがあのルフィであったというのは、今でもにわかには信じられなかった。告げた男があの鷹の目のミホークでなければあるいは信じられなかったかもしれない。  ぬしにそっくりだった、と言った鷹の目の声を、時に耳の奥に呼び覚ます。これほどに温かい言葉をヤソップは他に知らない。心が奮い立ち、自分もまた世界中の人に優しくできるような気にさせられる、そんな言葉。  だがその想いは、外でおきた大きな物音に破られた。  ピストルのハンマーコックのようにヤソップの体は椅子を離れていた。直感で人の倒れた音と知れた。しかもそれは鷹の目――  考えと行動が同時に走った。ベックマンもまた同時に動いていた。彼に叩かれてシャンクスも跳ね起きて、三人の足音がデッキまで一気になだれた。  予感は的中していた。  暗いデッキにミホークが倒れていた。  俺と息子の恩人が、と胸が押し潰されそうになり、声が一瞬だが喉に詰まる。  「鷹の目サン!」  助け起こした上身は意識のないためにひどく重く、膚は海風に当たっていたにしても冷たすぎた。 STAGE2  ベン・ベックマン  照明を落としたダイニングで、テーブルにつくそれぞれの表情を窺い知ることのできるものは、ミホークが持参して灯をつけた妙なろうそくの灯りひとつであった。先刻ミホークが灯にくべた香りは何だったろうかとベックマンは考え、やがて思い当たる名を記憶から引き出した。  詩人の灰。  若くして自殺した詩人の亡骸を荼毘に付し、その灰をくべて立ち上った煙を吸いこむと詩人になれるというのだが、もちろんこれはそれこそ詩的な表現に過ぎず、本当のところは酒の酩酊に似た効果を引き起こす、いわば軽い向精神薬だ。感情を押しこめている理性を緩め、心を解放するはたらきがあるが、幻覚を見せるともいう。  あの男が、とベックマンは毒のように赤い色をしたあの鷹の目を思う。彼がこんな薬を使うとは意外だった。常用者とは思えないが、あるいはよりましの仕事の時には使うのだろうか。 よ りましの行為をゼフはヤバすぎると忌み嫌った。さらに薬物まで使うというのなら確かに世界を極めた男のすることではないような気もする。  ベックマンはろうそくの灯を見た。  あの世の者が宿っているかと思うと目が自然と鋭くなる。  ベックマンはシャンクスを見た。いかにも眠そうに見えた。  「おかしら」ベックマンは囁いた。「寝るか」  うん、と素直な答えが返り、シャンクスはそのままテーブルに突っ伏してしまった。  ふっと、ろうそくの灯が消えた。  嫌な感じだ、とベックマンは思ったがシャンクスは夢の中にいる。ならば大事ではないのだと考えた。  ヤソップがマッチを取り出し、再び火を点けた。ろうそくは芯を鳴らして燃え上がり、風もないのにくらくらと揺れた。それを点けたのがヤソップであったからか、火がついたのはろうそくなどではなく、何かの導火線の端であるような気がした。じりじりと燃えて短くなって、やがて火薬に迫って引火、爆発する。そんな危機感に襲われる。  そしてまた、あのぴりぴりとした香り。  詩人の灰がまだ残っていたのだ。息を止めたが遅かったらしく、ベックマンの鉄の心にもやがて漣が立ちあがった。  灯の向こうの闇の奥に、鷹の目の男の幻が見えた。何か退廃的なものに耽っているような、とろんとした顔つきで床にうずくまっている。その腕に何かを抱えている。  幻だと分かっていながらベックマンは目を離せず、あがく。  その腕に抱えられているのは、シャンクスの赤髪。  馬鹿げている。  毒づいて視線を引きちぎる。本物のシャンクスはやはり先刻と同じまま、テーブルに伏せて眠っていた。  幻はほどなくして消えた。  が、直後に激しい物音がした。デッキからだった。  立ち上がったのはヤソップとほぼ同時だった。右手でシャンクスの肩をボンと叩き、説明はなしで走り出す。シャンクスもすぐに追いついた。  デッキへの扉を開け放つと、瞳が暗いデッキの隅をすばやく捉えた。 倒れているのは鷹の目だった。  詩人の灰の見せた幻が一瞬だけ重なったが、それはすぐに振り払った。幻はいずれにせよどこか甘いもので、目の前の現実はいつも厳しいものだということは逃げようのない事実だった。