STAGE2  ナミ  坂を上る間に疑問は確信に変わっていった。  なぜかは分からない。  それでも自分はあの時に戻っている。  人知の及ばぬ魔の海域・グランドラインならばあるいはこんなことがありうるのだろうか。人が過去に戻るということが。  村へ入っただけで分かる。今のココヤシ村ではない。あのときのココヤシ村なのだ。  通りに集まっている村人が何か口々に言っている。ああそれも分かる、とナミは拳に力をこめる。  アーロン率いる魚人たちが村を襲い、奉貢と称して金を絞り上げたあと、村の外れに暮らすベルメールの炊事の煙に気付き標的と見定めた、その直後だ。  村の駐在のゲンゾウが周りを見回している。自分と姉のノジコを探しているのだ。ベルメールと自分たちには血のつながりがないから村の役場には記録がない。魚人たちの目から隠しとおせると踏んで林の中へ逃がしたのは彼だった。  だが自分とノジコはこの時にはもうベルメールの家へ向かい走り出したあとだ。彼女へ危機を知らせに行っているのだ。  ゲンゾウとドクターが、狂ったように自分たちを探している。ナミは心が痛んだが立ち止まらず、ありったけの力で走り抜けた。  今度こそ、子供の自分にできなかったことをやり遂げるのだ。それは自分の義務だ。  馴染んだ道のりは今のナミにとっては驚くほど短く、家の横手に着いたときには魚人たちに追いついていた。水かきのついた手が扉にかかるよりも先にナミは裏のキッチンの窓に飛びついた。  「ベルメールさん!」  鼻歌まじりでフライパンを返していたベルメールが、ナミのその声で手を止め、すばやく辺りを窺った。次の瞬間にはその手が伸びて、ナミやノジコには届かない上の戸棚からショットガンと弾薬の箱を取り出す。手元はまったく見ずに箱から弾をつかみ出し銃身に仕込むまでの動きは、今のナミが見ても驚くほどの熟練ぶりだった。ナミも三節棍を取り出し一本につなぎ上げた。  アーロンが扉を開ける。  ベルメールは隅に身を潜め、虎かライオンのような目で標的を睨んでいた。人間の倍はあるアーロンの体格とあの風貌を見てもその闘志がまったく揺らがない。  だがナミは、足が震えるのを押さえるのに必死だった。膝に釘でも刺して止まるものならいっそそうしたいくらいだった。  アーロンの倒れる音とショットガンが弾を込められる音が同時だった。ナミも表に回りこんだ。  「ベルメールさん、すぐ撃って!逃げて!」ナミは叫んだ。この直後にアーロンが、頭に押しつけられた銃口をサメの牙で噛み砕くのだ。  果たしてそのとおりになり、ベルメールの体が吹き飛ばされた。ナミの声は悲鳴に変わった。  「よお、ナミじゃないか」  アーロンがナミを見た。「我が優秀なる測量士よ、こんなところでなにをしているんだ」  ナミは三節棍を振り下ろした。が、それはあっけなくアーロンの牙に折られる。それでも折られた先を突き刺そうとして、ナミはアーロンの手にガッチリと捉えられてしまった。  「ナミよ、いったいどうした」  アーロンが顔を近づける。生臭い匂いから顔をそむけ、アーロンの肩越しにベルメールの姿を見つけた。  もう血の海の中であった。  ナミは絶叫した。  アーロンも後ろを振り返った。「なんだ。ナミはこいつと知合いなのか?」  ナミの足が力の限りアーロンを蹴り飛ばしたが、掴まれた手はどうあがいても外れなかった。  アーロンは子供をあやすようにナミの手を引き歩き出した。ナミのサンダルが、地面を削って線を残す。ベルメールの傍らからその線がずっと延びていった。  「いいかげんに泣きやめよ、ナミ」  アーロンは笑っていた。冗談じゃない、今度こそ自分の手でカタをつけるんだとナミは思う。だがなぜか声が出なかった。  「もうあきらめろよ」  ナミの心臓は止まりそうになった。  「そうさ」アーロンが頷く。「お前は今回もあの女を救えなかったのさ」  派手な指輪をいくつもはめた手が、ナミのオレンジ色の明るい髪をわし掴みにし、その目がナミの目を射すように覗きこんだ。「ナミ、いいじゃねえか。どうせもともとこういう運命だったんだ。だが判ってるだろう?この時から八年後にお前はあの麦わらの野郎と知り合って、ヤツと一緒に俺を倒す。俺もまたそういう運命なのさ」  ナミは全身の震えを止められなかった。膝はとっくに崩れていたがアーロンの手がナミを地面へ倒れさせず、まるで大事な人形を抱えるようにする。  嫌だ! いやだ、イヤだ!  だが叫びはナミの頭の中に反響するばかりで誰の耳にも届かない。  アーロンが言った。「お前の考えているとおり、今はあの時そのものの時間じゃねえ。俺とお前はいわば劇場の観客のようなもので、お前の人生っていう名の劇を見ている客なのさ」  ナミはアーロンを見た。「なぜそんなことを」  アーロンは笑った。「俺はこれでも戯曲にはちとうるさい方でね。古今東西の名作ってヤツはひととおり読みこんだりもしたものだが、それでもときどき気になることはあったのさ。あすこはああした方がいいんじゃないかとか、ここはこうした方がより主題を明確にするんじゃないかとかな」  「ご立派なものね」ナミは吐き捨てたがアーロンは笑ったまま。  「で、俺は思ったのさ。お前のこの人生ももうちょっと筋を変えてみればいいんじゃないかってね」  「お金を出せば彼女を殺さずに見逃してやるとか?」  「おしい」  「はっきり言いなさいよ」  「まあ焦るな」アーロンはナミを膝の上へ座らせた。ナミは逃げなかった。  「お前の仲間、それで手を打とうじゃないか」  ナミの体はぴくりとも動かない。  「つまり俺としちゃ、この八年後にあいつに倒されるって筋書きを、どっかで変えることはできないかと思っているのさ。だが、どうしてもあの麦わらが関わってくる。筋ってのは思う以上に必然の上に成り立っていて、なかなか作者の勝手には運ばないものなんだ」  いつのまにかあたりは真っ暗になっていた。舞台裏の緞帳の陰のようだった。  「で、思いきってかなり斬新に変えることにした。腕のいい測量士を手放すのは惜しいが背に腹は変えられん。お前の存在そのものを俺から切り離そうと思うのさ。つまり俺はココヤシ村には来なかった。別の村を襲うんだ」  先刻のとはまったく別の震えがナミを襲った。あの悪夢そのものが『なかったこと』になるというのはどういうことなのだろう。  「ナミよ」アーロンが囁く。「あの麦わらとその仲間たちを手放せ。お前がそうしてくれれば俺たちはもう互いに関わることはねえ。あのベルメールとか言う女と仕合わせに暮らすもよし、若い男と恋をするもよし。あとの人生もお前の好きにできる」  涙が、とナミは思う。止まらない。止まらず溢れて顔をぐしょぐしょに濡らす。  「おい泣くなよ」アーロンが笑ったが、それはもうあの憎んでも憎む果てのないあの忌まわしい顔ではなかった。  「アナタは誰?」  喉を振り絞ってそう聞くのが精一杯だった。しかし答えはなく、代わりに手が顎につと添えられた。  キスするの?とナミはぼんやりした頭で考える。  ゾロよりも強く、サンジよりも優しく、ウソップよりも親しみのこもった仕草で、すでにアーロンではなくなった誰かがナミをひき寄せた。  このまま受け入れたら――  ナミは目を閉じる。ベルメールさんは助かるの?  でもルフィは?  固くつぶったはずの両目から意思とは関係なしに涙が溢れてナミは自分で恐ろしくなった。  だって、と唇をかみしめる。  私には選べない!  瞬間、一発の銃声がとどろいた。 STAGE2  サンジ  着いた先の建物は水族館だった。  人影はなかったが、暗い館内にライトアップされた水槽がいくつも続いていて、美しい魚たちか優雅に泳いでいる光景はサンジの目を引いた。  感心しながら進んでいくと、やがて一つの部屋があった。  正面の壁一面を占めるガラスの向こうに見えたのは、しかし泳ぐ魚ではなく、ナミの姿だった。  サンジはガラスに取りつき、ドンドンと激しく叩いた。「ナミさん!」  手首を掴み上げられたナミが必死に抵抗している。相手はあの魚人のアーロンだ。  「ナミさん!」  一歩下がってサンジはガラスの中央に得意の蹴りを見舞った。だがガラスはびくともしなかった。  ムダだね  声のした方を見ると、陰のテーブルの上に置かれた四角い水槽の中に古代魚が一匹泳いでいて、サンジを見ていた。  「テメエは何者だ?」サンジは水槽に手をかけた。  「揺するな」魚が水中から睨んだ。「水が減る」  「魚のクセにコックに指図とはいい度胸じゃねえか」  「お前こそ、二十年足らずしか生きていないくせにこの私に指図とはいい度胸だ」  サンジはともかく手を離した。ジジイは好かねえ、と内心で毒づく。が、すぐに壁のガラスに向き直った。  「助けたいか」魚が言った。  「当たり前だ」とサンジ。「向こうに行く方法はないのか」  「ないね」  「チクショウ」  「だが他の方法ならないこともないぞ」  サンジは水槽の端を掴んでいた。その水ごと魚を床にぶちまけかねない形相で睨みつける。  「あれを見な」  古代魚が鼻先をしゃくってみせる。するといつのまに現れたのか、あるいはずっとそこにいたのか、部屋の隅にうごめくものがあった。  それは半端な数ではない亡者の群れで、サンジは思わずゾッと身震いした。  「やつらは皆」古代魚が言う。「海で死んだ者たちよ。それが証拠に全員水浸しだろう?」  というより、とサンジは鼻を覆う。料理人の敏感な嗅覚に腐った潮の臭いはたまらなかった。  古代魚がサンジに笑いかけた。「俺はこの水槽から出ることはできないし、お前もあっちに行って女を救うことはできないが、あの亡者たちならもとがここの住人ではないから出入り自由だ。頼むなら彼らに頼むのだな」  ズルリ、と嫌な音をたてて亡者が近寄る。思わず退いたサンジの背中が水槽のあるテーブルにぶつかった。  「だから揺らすなと言っているだろうが」古代魚が言う。「人間同士、もっとフレンドリーに話し合ったらどうだ」  「うるせえっ」サンジは吐き捨てた。「だいたいコイツら、話ができるのか?」  「できるさ」答えたのは魚ではなく、手前の亡者だった。「お前に力を貸してやれるぞ」  サンジはガラスの向こうを見た。アーロンが、ナミの頭を押さえつけてニタニタと笑っていた。  「お前らが」とサンジ。「あっちへ行ってアーロンを倒せるって言うのか?」  「もちろんだ」  「魚人ってのは強いんだぞ」  「我らが束になってかかれば造作もない」  たしかに、とサンジは思う。この室内でサンジの目の利くだけでも彼らは二十人は超えていたし、だいたいが選り好みできる場合でもない。  「じゃあナミさんを助けてやってくれ!」  「足をくれ」  「えっ?」  亡者の、骨と皮だけになった手が伸びてきた。「腹が減っているんだ。お前の足を一本食わせてくれたら力も出る。必ず彼女を助けよう」  「ええっ?」  ドサッ、とサンジは尻餅をついた。それを待っていたように亡者がどっとサンジに詰め寄る。  「足をくれ」  「腹減った」  「足をくれ」  何十本もの手に足を撫で回されてサンジは悲鳴を上げそうになった。冷や汗が脇を伝うのがわかった。  クソジジイ!  心の中でサンジは叫んだ。が、そこではたと気付く。  そうだよ、何ビビってンだ俺  サンジは亡者たちを見た。古代魚の言う通り、確かに彼らは人間だった。  皆、飢えている。  たった一切れのパンでも残飯でももらえるのなら、サンジの願いの一つなどわけもなく引きうけるだろう、追い詰められた人間たちなのだ。  俺と同じだ  サンジの体が床へ崩れた。  そうだよな  額を押さえてサンジは思った。同じだ。  おい、と呼びかけると先刻話しかけてきた亡者が覗きこんできた。  「足は、やるよ。お前らで分けて食いな。そのかわり」  「ああ、分かっている」亡者は答えたが、手には大きなナタを持っていて、心はもうサンジの足にしか向いていなかった。  寝転がったサンジの足に一瞬だけ冷たい感触が走る。ゴトッという音がして亡者たちの歓声が上がり、ものを食う音が争うように続いた。  なんだ、とサンジは拍子抜けした。もっと痛いかと思っていたら全然痛くなかったのだ。  天井を見上げたまま上着を探り、タバコを取り出す。マッチを擦ったが水にでもぬれたのか火が点かず、仕方ないのでそのままくわえるだけにした。  と、亡者たちの声が少し変わった気がしてサンジは身を起こし、そしてタバコを思わず落とした。  ガラスの向こうに見えたのは無数の敵に囲まれ、血まみれで戦うゾロの姿だった。  「おいっ、どういうことだよ」  ゾロは刀を持っていなかった。我が身のように大事にしていた三本の刀が三本ともないのだ。敵から奪ったらしい剣を握ってはいたが、それはサンジの目にもなまくらで、切っても切れるものではなく、次々襲いかかる刃を受けているうちにもろくも折れてしまった。ゾロはそのまま走り出した。  「ゾロ!」  だがサンジの声は届いていない。  「おいっ」サンジは亡者の肩をつかんで振り向かせた。その手にゾロの刀があった。  「テメエ、これをどこで?」  やみくもに亡者たちをかき分けると、結局三本全部がサンジの目の前に揃ってしまった。  おびえた声で亡者の一人が言った。「あの緑の髪の男が捕まっていた船に置きっぱなしになっていた」  「捕まってた?」  別の一人が頷く。「島に上陸してすぐ、あの男、捕まった。持ってた武器を取り上げられ、閉じこめられていたが逃げ出した」と言ってガラスの方を見る。  サンジは叫んだ。「今すぐこの刀をヤツに届けろ!」  だが返事はない。  「テメエらに足を食わせてこっちは動けねえんだぞ!そのくらいしろよ」  だが誰もがおびえて動かない。  「誰か行ってくれよ!」  すると、とんとんと肩を叩く者がいた。子供だった。「ボクが、行ってもいいよ」  言って子供は手のひらを上向けて差し出した。  「お駄賃かよ」サンジはポケットを探った。しかし子供はその手でサンジを指差した。  「目玉」  「は?」  「お兄ちゃんの目玉、一つおくれ。青くてとってもきれいだ」  しばらく黙ったものの、結局サンジは前髪を掻きあげてやった。「死んでも届けろよクソガキめ」  冷たい小さな手の指が一瞬触れて、そして離れていった。左の目はもうなかった。  痛みもなく、血もさして流れず、自分の取引はなんと簡単なのだろう。  ジジイは、とサンジは思う。自分の足を自分で潰したとき、恐ろしい痛みに耐えぬいたはずなのだ。なのに自分は痛みすら分かつことすらない。  ウソップが。  サンジの残った右目がガラスの向こうの景色を捉えた。右手に深手を負い、それでもパチンコを引き絞ろうとしていたが、血で滑ってうまくいかないでいた。  「俺の右手、やつにくれてやれねえか?」サンジは呟いた。  答えを待つまでもなく、亡者どもが腕に取りついた。  「食うなよ。届けるんだぞ」自分の耳に響く自分の声の穏やかさにサンジは笑った。  かいあってナミは、ゾロとウソップは港に停泊するゴーイングメリー号にたどりついた。最後にルフィが 走ってきて船に飛び乗る。  追手が火矢を放ち、帆を、そして船そのものを焼こうとしていた。  ああ、とサンジは思う。  「俺は」  サンジは亡者たちに笑みを見せた。「実は手や足なんかよりはらわたがいちばんウメエんだ。特別にお前らにやるから俺の」  サンジは静かに横たわる。「俺の仲間たちを無事逃がしてやってくれ」  「引きうけた」  よかった  サンジは美しい皿の上にいる自分に気付いた。カシャンカシャン、と銀のナイフやフォークが音をたてている。クリスタルのグラスが合わさる優美な音もした。  これでいい  だが涙が溢れて止まらない。  俺は  体を折り曲げ身を縮める。ふと、残っている手足がガリガリにやせ衰えていることにサンジは気付いた。  あの頃の子供の手足が、ボロボロのコックコートと黒いスラックスに包まれ小刻みに震えている。  まさかずっと夢を見ていたのか? あのねずみ返しの島で、長い長い夢を。  ギリギリの飢えから辛うじて救出された夢を、その後もゼフと行動をともにして、そしてルフィたちと出会い、海へと飛び出した夢を。  ならば死に際の夢ってのはいいもんなんだな、とサンジは思い、今度こそ死神の手に抱かれることを覚悟して目を閉じた。  グシャッと何かが踏み潰された音がして、サンジはハッとして目を開けた。  そびえるほど大きな人影が、目の前に立っていた。 STAGE2  ウソップ  いよいよヤバくなってきた、とウソップはうなった。見なれた小道の向こうに故郷の家が見えていた。  そっと、別に悪い事をするわけでもないのに抜き足差し足のドロボースタイルで家に近づく。中からは男の子の声が聞こえてきていた。  ウソップは戸口に立った。陰が扉に落ちていて、自分が幽霊ではないことを教えてくれている。どうやら腹を括るしかないらしい。  トントン、とドアをノックする。間髪いれずにドアが開かれた。  「父ちゃん?」  「あの、いやその」ウソップはたじろいだ。ドアを開けたのは案の定、子供の頃の自分だった。  子供のウソップが、露骨にがっかりした顔を見せた。「おじちゃん、誰だよ」  「おじちゃんとは失敬な」言ってからウソップは考えなおす。「あ、いや、まあ血のつながりから言ったら『おじさん』には違いないな。オレはお前の親戚で勇敢なる海の男、名前は……えーっと、その、ルソップだ」  「ルソップ?」  少年はしつこい物売りを見る目でウソップを検分している。  だが、ウソップの目は奥のベッドに眠る母親に釘づけになっていた。  少年が声を落とした。「母ちゃんは病気なんだ。うるさくするなよ」  「ウソップ……?」間違えようのない母の声がした。  「はいっ?」うっかり返事をしてしまい、少年に変な顔をされる。  お客様なの?と、か細いが美しい声が続いた。  「ああドウゾおかまいなくお母さんッ、ワタクシその大した用事ではゴザいませんですのでスグ退散させていただきますですハイッ!」  「すいません」母親が言った。「お構いできませんで…ウソップや、お茶を淹れてさしてあげてね」  「ハイッ!て俺じゃねえのか、こりゃまた」  冷や汗で床に水たまりができそうだ、とウソップは思った。母親と話すことがこれほど緊張することだとは予想外だった。ガクガクと笑っている膝をごまかそうとして椅子に座ったが、尻を乗せてしまってからその椅子の足が微妙にカタカタと音をたてるヤツだったことを思い出してしまった。  少年のウソップがお茶を運んできた。懐かしいカップに懐かしいお茶が入っている。だが飲みたい気持ちの一方で手の震えがひどく、それを持ち上げる自信がなかった。  「ルソップおじさん」  「ん?あっ?ああなんだ?」  少年のウソップがのぞきこんできた。「おじさんも船乗りなんだろ?」  「ああそうさ」ウソップは答えた。「グランドラインをまたにかける大海賊様だ。オレサマの冒険譚を聞かせてやろうか?」  「父ちゃんのこと、何か知らないか?」  来た、とウソップは生唾を呑む。この当時の自分は母親の看病をしながら父親の帰りを今か今かと待ち望んでいたのだ。今日は帰ってくる、明日こそは帰ってくる、いつか帰ってくる、と。  ウソップは少年を見た。「お前の父ちゃんは、ヤソップは偉大な海賊さ。勇猛果敢な赤髪海賊団の砲撃手、百発百中のヤソップといえば海で知らないやつはいない」  「帰ってくるよね?」  うっ、とウソップは詰まる。  「母ちゃんを助けるために、帰ってくるよね?」  「……」  来ないんだよ、とウソップは心で唸る。俺は知っているんだ。  カップをそっと脇へよけて、ウソップは子供の自分の手を握った。  「よく聞けボウズ。父ちゃんは」  「帰ってくるんだ!」  だがウソップは首を横に振った。「いや、帰ってこない」  「ウソだ!」子供のウソップが叫んだ。「おじさんはウソをつくのがヘタクソだからすぐ分かったぞ!父ちゃんは帰ってくるさ」  「おいっ」走り出そうとした子供の手をつかんで、ウソップはその体を抱きとめた。  めちゃくちゃに暴れ出すかと思ったが、子供は涙を浮かべながらもベッドの方を見るなりすぐにおとなしくなって、それがかえってつらかった。  「母ちゃんが」小さな声が言った。「母ちゃんがかわいそうだ。俺なんかよりも母ちゃんのために帰ってきてほしいんだ」  「知ってるさ」ウソップは抱きしめる腕に力をこめた。「だから俺もウソがつけないのさ」  「父ちゃんなんかだいきらいだ」  「それも知ってる」だがウソップは笑わずにはいられなかった。「俺は昔っからうそつきだった」  そうだ、とウソップは少年を見た。「射撃場へ連れてってくれよ」  きょとんとなった少年が泣くのを忘れた。  「射撃場さ。パチンコの練習、してるんだろ?俺に見せてくれよ」  少年は奥を見やる。母親は静かに眠っていた。  家の裏手の林の中に、ウソップがパチンコの腕を磨いた練習場がある。ずっと昔にヤソップが作ってくれた的が木の枝にいくつかかけてある。久しぶりにそれを見たいと思った。  外へ出ると練習場はちゃんとあった。だが今の視線で見るとずいぶん小さい。  「父ちゃんは」少年に笑みが戻った。「十メートル離れたアリの眉間にだって弾をぶち込めるんだぞ」  「そりゃすげえ。おじさんにもそこまではではきねえな」  「おじさんもピストルを使うの?」少年の手には自分のと同じパチンコが握られている。  「いや。ボウズと同じこれさ」  「腕前、見せてみろよ」  ははは、と笑ってウソップは鉛星をいくつか手に取った。「そこまで言うなら見せてやるが腰抜かすなよ。何しろオレサマは魚人の幹部を仕留めた男だ」  そう言って鉛星一つをパチンコに据えると、背中から振り向きざまのノンストップアクションで弾を放ち、いちばん奥の的の真ん中に打ち当てた。続く流れでもう一発を放って、落ちてきた葉に当て、葉ごと左の的にぶつける。一瞬、葉が止まり、そしてゆっくりと舞い下りてきたのを、もう一発の弾で再び撃ち抜いて見せた。  「どぉーだ!」  少年の目はまん丸になっていた。  が、その瞬間、ウソップの耳に銃声が響いた。  右の肩が、焼けた。  「おじさん!」  ウソップは少年を左腕で抱えて茂みへなだれこんだ。「静かに」  弾の方向から見て向かいの木陰だろうと目を凝らしたが、敵の姿は見えなかった。移動する物音もない。  ウソップは家の方を見た。母親のことが気がかりだった。ゴーグルのスコープを下ろしてつぶさに見て、とりあえず家を射程に入れられるところに人影はないことを確かめる。  「ボウズ」ウソップは少年の自分に言った。「怪我はないか?」  少年は目をつぶったまま、大丈夫、と首を縦に振った。  「ボウズ、母ちゃんを守るんだ」  だが今度は首が横に振られる。「父ちゃんが」  「?」  「父ちゃんが助けに来ればどんなヤツでも一発で終わりさ」  「父ちゃんは来ない」  「来る!」  「来ないんだよ、ボウズ」ウソップは火薬星を取り出した。十人か、かなりの数の足音が迫っていてた。  「おじさん」  「うん?」ウソップは振り返る。  「父ちゃんは――俺たちを捨てたの?」  ドサッ、とウソップは大きな尻餅をついた。  同時に鋭い銃声に思わず首が引っこむ。「バカヤロー」ウソップは少年の鼻をはじいた。  そのまま立ち上がって茂みから出ると火薬星を放つ。続けて少年の背中を押して走り出し、少し離れた別の茂みへ飛びこんだ。  「走れ走れ!」叫んでウソップは後ろへ振りかぶり、もう一発火薬星を放つ。足もとの石を拾い隣の茂みへ投げこむと、ガサッという音と同時に敵の銃声がそれを追った。その隙にウソップは少年に追いついた。  しかし家へまだ距離があった。表は見通しがよすぎるから、入るとすれば裏手のキッチンのドアからだ。それでもまだ遠い。  手のひらのべたつきをどうにかしたくて何気なく右手をズボンにこすりつけると、汗でなく血がべっとりとついた。「チクショウ」  「おじさん」少年が顔を覗きこむ。「大丈夫?」  「ああもちろんさ」左手首のサポーターを右手へ移して肩から流れる血をせき止める。「オレ様の数々の冒険の中じゃ、この程度は怪我のうちにもはいらねえさ」  だが長期戦には持ちこめない。  ルフィ、ゾロ、そしてサンジ。  こんな時、あの強い仲間たちがいればと思う。自分が必死になって駆けずり回らなくても彼らがいれば十人程度の敵などわけもないだろう。  だが俺は  少年を抱き寄せる手に力がこもった。  いつも独りだ  少年のウソップは父親の帰りを待ちわび、今の自分は仲間たちのことを考えている。  来ないんだよ  自分が自分に言ったその一言が胸に刺さる。肩が痛みを増した。  脂汗をぬぐい、パチンコのグリップをきつく握る。  来ないなら  「ボウズ」ウソップは言った。「お前のことは俺が守る。俺は父ちゃんじゃないけど、それでもいいか?」  「おじさん」  ウソップはゴーグルに手をかけた。「俺は家まで走る。お前は煙幕を張って俺を援護しろ」  「わかった」少年が自分の足で立った。  その小さな手にウソップは煙星を渡した。「煙幕の張り方はオヤジに習ったよな」  「敵に近いほうの風上から順に手前に撃つ」  「そのとおり。使える相棒だぜお前は」  合図で少年が、そしてウソップが飛び出す。煙星は敵の茂み近くで一つめが炸裂して最初の目くらましをかけ、続く二発目と三発目がその煙に紛れて手前の茂みと家の間の直線コースを遮った。  敵が煙に向かって闇雲に撃ってくる。ウソップはその下を四つん這いで走り抜けて家の中に転がり込んだ。  だが起き上がって目にした光景に、ウソップは頭を殴られたような気がした。  室内は既にめちゃくちゃに荒らされていて、形をとどめているものがまるでなかった。  「母ちゃん!」  親戚ルソップを名乗っていたことも忘れて叫び、寝室へ飛びこむ。  ズタズタに引き裂かれた毛布やシーツの中に、しかし母親の姿がなかった。  弾けるように元来た方へ走り出す。消えかけていた煙幕の中を茂みへ行く。  今度は少年が消えていた。  「ウソだろ?」  守ると約束したのに、母親も、幼い自分さえも俺は守れないのか。  腹の底から唸り声が湧いて出て自分でも止めようがなかった。少年の靴跡の残る地面を睨みつけ、バカみたいに吠えている自分――  そのとき、真後ろでカチリと撃鉄を起こす音がして、ウソップの体は振り仰ぎざまに地面へと倒れた。  パチンコをかざした手が、しかし弾をはじく前にびたりと止まる。  スコープが捉えた人影に、息が思わず止まった。 STAGE2  ルフィ  船は、子供の頃に出入りしていたそのままだった。  メインマストのてっぺんに三本傷のジョリー・ロジャーをいただく赤髪海賊団の船。  人影は、ない。  磨きこまれた甲板から、ドアをくぐって中へ。暗さに目がなれると記憶が一気に甦ってきた。  急な階段を下りると下は食堂だ。かつてはひまな乗組員たちがトランプやバックギャモンで遊んだり、楽器を奏でてわけのわからない歌を歌ったりしていたところだ。  海が荒れてもものか落ちないよう、四辺にふちのついているテーブルに、ラム酒の瓶が載っている。掴んでテーブルに戻すとゴトリと音がした。  この船がこんなに静かなのは見たことがない。  それに、とルフィはあたりを見回す。なんて暗いのだろう。  戸棚を開けるとカンテラの予備がきちんとしまわれていて、ルフィはそれを取り出した。  船の中では火は極力使わないのさ。船火事は最悪の事態だからな――  そう言ったのはやはりシャンクスだったろうか。ルフィは結局、それを持つだけにして、歩き出した。  自分の鼓動の音がうるさいくらい聞こえてくる。船内の狭い廊下を伝っていくと、船医室、幹部室と続いて船長室があった。キャプテン、と刻まれた真鍮製のプレートが今のルフィの目の高さにあった。  ドアをノックしてみる。  入れ、と中から声がした。  ルフィはこれも真鍮でできたドアノブに手をかけた。音もたてずにそれが回った。  中は、まっくらだった。  「シャンクス?」  「ドアを」闇の中から声が届く。「閉めて来い」  ルフィは言われたとおりにした。ぱたりと静かな音がして、視界は闇一つになった。窓からの明かりもなく、ただ重苦しい空気が部屋の中に満ちていた。  探るように歩いて声のしたほうへ進むと、大きなベッドが茫と浮かんで見えた。  「シャンクス?」とルフィは声に出す。  「ああ」返事があった。  幽かな灯りの中に、あの赤い髪と、傷のない方の横顔が見えた。  「シャンクス!」  「よお、ルフィ」上身を起こして枕にもたれかかった姿でシャンクスはルフィを見ていた。だがその頬の肉は削げ落ちて骨が浮き上がり、逆に眼窩は落ち窪んで濃い陰を作っている。色のない乾いた唇がひび割れるように動いた。「久しぶりだな」  ルフィは頷いた。「シャンクス、病気なのか?」  「あ?いやそういうモンでもないんだがな」  「ひでえ顔だよ」  「そうか?」息を無理に吐き出すような弱い声でシャンクスは笑った。「それよりお前、本当に海賊になったんだってな」  「ああ、なったよ」  「仲間は?」  「四人いる。イイ奴ばかりだ」  「そうか」  「シャンクスの仲間はどうしたんだ?」  「俺の?」  「ああ」ルフィは火のないカンテラをテーブルに置いた。「ここに来るまでの間、誰にも会わなかった」  「なら全員降りたんだろう」  「なんで?」  シャンクスは右手で顔を覆った。その手の細さにもルフィはどきりとした。  「それぞれの夢を追うためさ。それよりルフィ、お前の話を聞かせてくれ」  「答えてくれよ、シャンクス」  シャンクスの細い体が背中の枕に沈んだ。  「ルフィ」闇の陰に隠れて表情は見えない。「お前なら、見る勇気、あるよな」  ああ、とルフィは答える。  シャンクスの細い右腕が動き、自分のシャツの合わせをくつろげた。ルフィはベッドのふちにそっと膝を乗せ、彼の導くままにそこを覗きこんだ。  「!」  その左腕は幼い頃のルフィを助けたときに、二の腕から下を失っている。だがルフィの眼前に浮き上がったのは、その傷跡が膿んで腐ったものだった。  ガッ、とシャンクスの右腕がルフィを背中から抱えこんだ。シャンクスの上にかぶさるようになっていたルフィの体は柔らかいベッドの上についていた膝と手を崩されてシャンクスの胸の中へ押さえこまれた。  「シャンクス!」  「つまりそういうことなのさルフィ。少し前から古傷が悪化しやがって、今じゃすっかりこのザマだ。もう立つこともできないこの俺が船長を続けられるわけがないだろう?」  もがくルフィをしかしシャンクスの隻腕は離さなかった。  ぐっと頭を持ち上げると、ルフィの目の前にシャンクスの目が迫っていた。  「ルフィ、お前もここで朽ちてゆけ」  「イヤだっ!」病人と思って緩めていた力を、ルフィは手加減なしに振るった。しかしそれでも背中の隻腕が外れなかった。  「俺の命は」押しつけられた胸からじかにその声が耳に響く。「どうせあと少しさ。明日か、あさってか」  ルフィは動きを止めた。シャンクスは泣いていた。  「ルフィ。朽ちてゆけなんて言って悪かった。だが俺が死ぬまでのほんのわずかの間でいい、俺のそばにいてくれないか?この船にはもうおまえしかいない」  テーブルに置いたカンテラに火が点いた。だが光を得て闇はますますその色を濃くし、ルフィの目にシャンクスの腕の傷以外のものを見えなくさせる。  「頼む。俺が死ぬまでの間、ここにいると言ってくれ」  「シャンクス」  ルフィの手がシャンクスの深紅の前髪へ、ゆっくりと伸びた。 STAGE2  ゾロ  敵船の内部は暗かったが、細く急な階段を下りた先に現れたのは華やかなダンスホールだった。ピカピカの床がずっと続く先にグランドピアノがあり、シャンデリアと美しいドレープのカーテンがその間を飾っている。  だが、そこになだれこんできたのは着飾った人々ではなく、ゾロよりも身の丈のある屈強な兵士ばかりだった。  「踊る気充分ってカンジだな」ゾロは緑の髪を黒い手ぬぐいで覆った。「俺も殺しのドレスでお相手してやるぜ」  この広さなら申し分ない。ゾロはいったん納めた雪走と鬼徹を鞘から抜き払った。和道一文字の柄をその歯にガッチリと捉えて、三刀流の構えを取る。  敵は壁沿いにバラリと流れて入口近くにいたゾロを取り囲んだ。全ての刃が一定の間合いを取って包囲して、ゾロを中心とした円形になった。  ゆらり、とどこかの刃が揺らぎ、それを合図に全ての刃が踊りあがった。  ゾロは腰を落とし、第一刀を下から払い上げた。幾条もの刃がそれとぶつかり鋭い音を立てる。二本を集中して前へ繰り出し、前方へ活路を作ろうとしたが、包囲はゾロが思ったよりも厚かった。  前方と、脇と背後のあらゆる角度から来る乱れ討ちをさばく。普通、多勢で一人を取り囲むときは相打ちを避けるためにも一度には斬りかからず、包囲を強固にした状態から三、四人ずつが出ては嬲る消耗戦に持ちこむものだが、この包囲にはそんな考えはないらしい。どの敵兵も我先にとゾロに斬りかかってきた。  この首に賞金でもかかってるのかよ、とゾロは思う。あるいは最初の一太刀を浴びせた者に褒美でも約束されているかのように、兵士たちは次々と剣を繰り出してきた。  だがそういう戦いは連携がない上に、仲間割れや足の引っ張りあいなどをして隙を作りやすい。  そこを突いてこのホールを抜けるか。  だが時に隙はあってもこの包囲の人垣の厚さはいったいなんなんだ、とゾロは思った。  斬っても斬ってもきりがない。  はじめに見たときはせいぜいが三十人と思っていたのに、後から増えたのだろうか。  思いつつ一人を袈裟斬りにしたところで、その先にグランドピアノの漆黒が見えた。ここまで圧してきていたかとさらに踏みこむと、そのボディにゾロの腹巻の緑が映りこんだ。  振りかえりざまに両の刀で二人を斬り抜き、ゾロはピアノの上へ飛びあがった。黒く輝く上蓋は閉じられていたが、まるで弦自体を踏みつけたような大きな音がした。  そうしてホール全体を俯瞰して、ゾロは愕然とした。  敵は今や百人を超えてホールに溢れかえっていた。  しかも、五十人は斬ったはずが、床に倒れた敵兵の一人も見えない。ひしめく敵勢に紛れて見えないのかと思ったがやはり間違いない。その証拠にゾロの刃の傷を受けたまま、立って剣を振りかざしている者が、それこそ五十人はいた。  ゾロは手の中の二本の刀を見た。血が、一滴たりともついていなかった。床にも血の海はなく、そして流されれば必ず分かるあの血の臭いもそう言えばまったくしていなかった。  ガン!という音がして、続いてゾロの足元が斜めになる。兵士の棍棒がピアノを壊しにかかったのだ。ゾロは残った足場から高く飛びあがり、降りる勢いのまま、疾風のように兵士をなぎ払い着地した。やはりどの傷からも血は出なかったし、どの兵士も倒れなかった。  「クソッ!」  両手の刀を振り回してゾロは叫んだ。怒って戦況が変わるものでもないと分かりすぎるくらい分かっているのに叫びが止められなかった。とにかくこのホールを出たかった。だがどうあがいてもホールの出口が見えない。このままではやがて疲れて隙が生まれるし、ことによっては刀がもたないかもしれない。  刀  ゾロは口にくわえた白い刀を思った。  くいな  彼女との約束を思えばここで負けることは自分が許さない。だがかつて戦い、なすすべもなく破れるほかなかったあの鷹の目の男の前で感じたものとは別の焦りがゾロの心に忍び寄っていた。敵の一人一人は斬るのに雑作もない。だが斬っても決して倒れず、永遠に襲いかかることを辞めないこの敵と、いったいどう戦えばいいのだろう。  息が、荒くなってくる。汗が目に入る。  次の瞬間、ゾロは目を見張った。  目前の大男の両脚を一太刀で斬って倒した刀があったのだ。 しかも倒れた敵の影から現れたのは、白い綿のシャツに黒のスパッツ姿が清楚な、ゾロにとって忘れることの決してない、あの少女。  「くいな!」ゾロは叫んだ。  くいなはゾロに微笑み、その笑みのまま敵の一人を斬ってゾロに並んだ。  「くいな!」二人の周囲を取り囲んでいた兵士たちが次々に叫んだ。  「くいな!」「娘!」「邪魔するなァ!」  だがくいなの大きな瞳には少しの怖気もない。どころか刀を振れば確実に、自分の背丈の倍はある男たちの丸太のような脚を斬って倒してゆく。  脚を斬ればいいのだとゾロは気付き、くいなに続いて刀を繰り出した。兵士たちの巨体がどうと崩れ、床に転がった。  見ると兵士たちは斬られた脚を拾って無理やりにくっつけている。そしてそれを本当にくっつけて立ち上がる者もいた。だがそれでも動きはかなり鈍い。  出られる、とゾロは確信した。  くいながゾロの腕に触れる。はっとして振り向くとその細い指が伸びて一点を指し示した。ゾロは迷わず その指先にいた兵士の脚を、立て膝を着いた体勢のまま斬り飛ばした。ざくり、と荒縄を切るような音がした。  ピッ、とくいなの指が新たな方向を指す。先刻の男のすぐ右側にいた兵士が蛮刀を振りかざしたがそれはくいなが受け止め、ゾロは差された方向の兵士の脚を斬る。  ゾロはくいなを見た。美しい細身の白刃一本で幅広の蛮刀を受け、上からのしかかる力にもびくともせずその場に踏みとどまっている。そしてゾロの加勢を待たずにその刃をぐるりと流し、力のバランスを一気に逆転、背後から脚を斬り落とした。続く背中への一刃もくいなは鮮やかに振り返って受け流し、返す刀にヒュンと軽い音さえさせてまた一人を倒す。  ゾロは魅入られて思った。まるで、踊っているみたいに軽い。  力で圧し、力で斬る自分の剣が恥ずかしくなるほどにそれは美しく、そして優しいとゾロは気付く。  優しい剣。  そのとき、ゾロの胸に一つの名が浮かんだ。それはくいなの優しい剣さばきを見るうちに一つの確信に変わっていった。  そうだ、あの男の剣に似ている。  自分の剣ならこの合間に何度も鋭い音を立てているに違いない。しかし眼前のくいなの剣はあくまでも優しく流れて無粋な音など立てず、それゆえ剣と自分の体にに無駄な力を強いないのだった。  しかし。記憶の中のくいなの剣は華奢な少女に似合わず力のこもったものではなかっただろうか。ゾロが少し年下だったとはいえ、その刃は時にゾロの手首をしびれさすような打ち込みを浴びせていた。あの月夜にくいなが言ったこと、女の子はいずれ男の子に追い抜かれてしまうんだと泣いた、その気持ちが彼女の剣に怒りと焦りと、そして悔しさをまとわせていたような気が今にして思えばする。  だが、今の彼女の剣にはそれがない。太刀筋が違う、とゾロは結論した。  この筋は――  「ミホーク」  ゾロが吐息のように囁いた瞬間、すべての音が止まった。  剣戟も怒号も、踏み鳴らされる床の軋みも、すべてが消えた。  百人の兵士たちがみな手を止め、ゾロを注視していた。  ミホーク、と兵士の一人が言う。  ミホークと言ったぞ、と別の兵士が呼応する。  「そうか!ミホークと言うのか!」  兵士たちがその名を次々に口にすると、壁がうなり、窓を飾るステンドグラスが吹き飛んだ。  いったい何が、と思いながらゾロはくいなを見た。  くいなはただ笑っていた。しかたないなあ、というふうに。  だが次の刹那、  「ミホーク!死ねえ!」  百の兵士の大音声が一つになったとき、くいなの体は前のめりに倒れた。  「くいなっ!」  ゾロがかろうじて受けとめる。その腕の中で、バサッとコートの翻る音をたてたあと、その体はくいなからあの鷹の目の男へ姿を変えていた。ずしりと重い体がゾロにのしかかった。  兵士たちはゾロのことなど忘れてしまったようにミホークの名を叫びつづけ、手や足を引っ張った。ゾロは右の腕にミホークを抱え、左の腕一本で剣を振るって兵士たちの伸ばす手を払いつづけた。  「おいっ!」  本当にミホークなのかとゾロは腕の中の体を引き寄せる。がくりとのけぞった顎に黒く優雅なひげがあった。口髭も、細くとがった鼻梁のとおる顔も、赤い目を閉じていようが見間違えようのない、あの男のものだ。  無防備に晒してしまった白い喉に敵の刃が迫るのを、ゾロの刀が弾き返す。だが脇から伸びた手がミホークの胸に届いてしまい、爪のかかったところから血をしたたらせた。  空気を裂くような歓声が上がり、床の血に幾人もが群がる。びちゃびちゃと卑しい音をたててそれを舐めるのは、兵士の化けの皮を忘れ、見にくい姿に戻り果てた鬼たちだった。  今のうちに、とゾロはミホークを抱えて走った。それまでの死闘が嘘のようにやすやすとホールを抜けられて、狭い通路から階段へ、そして表の甲板まで脱出しおおせる。  外は夜だった。  「ミホーク!」ゾロは腕の中へ呼びかけた。そのとき、海を渡る風が吹いて、空の群雲を払った。  赤い月が現れた。  それも二つ。  ぎょっとして立ち尽くし、ゾロは鷹の目の男を見た。  赤い瞳が、月の光を反射してギラリと輝いていた。  「ミホーク!」  月は一つに戻り、青白い静けさを取り戻した。  「強き者よ」穏やかな、確かな声が返った。体がはっきりと力を取り戻し、ゾロの手を離れて自分の足で甲板に立つ。  「やはりぬしは俺の名を呼んだか」赤い目が細くなり、それなりに非難めいた。「まあよい」  「よいって、おい」だが声は駆け上がってくる足音に遮られた。鬼たちが来る。刀を握る手に力がこもった。  が、それを制したのは鷹の目であった。  「鬼どもは俺が引きうけよう。ぬしにはぬしにしかできぬ仕事をやってもらう」  「?」  鷹の目が声を忍ばせ、唇を読まれないよう用心までしてゾロへ耳打ちした。  「ぬしらの船の帆を切って落とせ」  「なんでだ」  「海の悪魔どもの息がかかっている。船は今、同じ海域を堂々巡りしているのだ。帆を切って落とせば緩い海流がじきに船を押し出してくれる。だが脱出を急いで帆の力を使えば悪魔の思うツボだ」  ドアを蹴破り、あるいはマストの上からバラバラと零れ落ちて、甲板上に鬼の姿があふれた。  ミホークが船べりへと後退する。ゾロも合わせて下がる。その真下にゴーイングメリー号の羊の頭があった。  「ぬしが先に行け」  なだれうった鬼たちを前にミホークは泰然としたまま、すうと右手を上げる。ふわりと巻き下ろすとその手に世界最強の黒刀を掴んでいて、さらに一払いすると黒い刃から青白い炎が立ち上った。それは月の光であった。  黒刀を手にしたミホークを心配する必要はないはずだが先刻の昏倒は、とゾロは訝った。  「強き者よ」ミホークが言う。あくまで名を呼ばないのは、この「世界」のルールなのかとゾロは思う。  「ここを出るためにゆけ。ぬしの仲間もこの俺も、全てぬしの手に命かかっておるぞ」  「分かった」  鷹の目の男の背中を一瞬だけ見て、ゾロは船げたの外へ身を躍らせた。ルフィがいつも乗っている羊の頭を蹴って、そのまま甲板に下りる。  帆は確かに風をはらんでいた。  メインマストに帆をつないでいるロープを見定め、刃を下ろす。  瞬間、ロープが消えた。はじめからなかったのだ。  そういえば、とゾロは気付く。敵船の中で敵兵の脚を斬ったとき、縄を切るような音がした。あれはくいなの姿を借りていたミホークが、この船のロープの位置を示して自分に斬らせていたのだ。途中、正体が鬼に知れて果たせなかったその続きを今しろというのか。  ならばあの船がすべて幻だったということなのか。  そう思ったのと、雷のような衝撃の走ったのが同時だった。  船は激しい風の中を木の葉のように揺られていた。  戻ってきたのか、とゾロは思う。この世界が現実なのか、と。  そこへ風にあおられた帆布が襲ってきて、ゾロは危くそれをかわした。帆布は左舷のロープを切られた状態でまるで生き物のようにうねくっている。  帆を切って落とせ  ミホークの言葉を思い出す。海で帆を切って落とすのは救援を乞うしるしだ。  そして風ではなく、海流に乗れともミホークは言っていた。  ざくり!  ゾロの一刀が張り詰めたロープを斬った。ばさっという音が断末魔のように響いてゴーイングメリー号の、麦わらを被ったドクロの帆がついに甲板へ落下した。風が吹き上がって最後の抵抗をするが、帆は少したわんだあと、力をなくした。  これでいいのか、とゾロは振り返り、そして顔色をなくした。  敵船が、跡形もなく消えていた。  「ミホーク!」  だが風の咆哮の外に声は返っては来なかった。