STAGE1  ゴーイングメリー号の甲板  明けた翌日は霧が濃くたちこめて、日中も太陽を見ることがなかった。  海面すれすれの空気は灰色一色に遮られ、帆をふくらませる風は弱いまま。ただ、船の速度は充分に出ていたのですぐ抜けられると思っていたのがいっこうに途切れそうになかったので、ナミは帆を少したたもうと判断した。  「岩礁なんかにぶつかっちゃったら目も当てられなくなるでしょ」  見張りもしっかりね、とナミは仲間たちに念を押す。「こういう時にかぎってよその船がいたりするわよ」  望遠鏡はもう役に立たなくなっていた。見通しが悪いせいもあるが、湿気を多く含んだ霧と生温かい風のせいでレンズに水滴が付き、何度拭っても曇るのだ。  「ナミさん、右舷に黒っぽい影だ」見張り台のふちから黒いスーツの手が伸びた。ナミは目を凝らした。 「どこ?」  「一時半の方向」  「半って何よそれ」  「ナミ!」左舷についていたウソップからも声が上がった。「九時二十五分方向にも影だ」  「ふざけないでよ」だが影はあった。  「ナミ!」今度はルフィが羊の船首像の上から叫んだ。「真正面にも何かあるぞ」  「みんなまずそれが動いているかどうか確かめて。ただの小島か、それとも船なのか、船なら近づいているのか遠ざかっているのか、それを見て」  ゴーイングメリー号の船体は海の大きなうねりを受けてゆっくりとローリング(横揺れ)とピッチング(縦揺れ)を繰り返している。  このままではまた夜が来てしまう。ナミは腕につけたログポースを見た。針はぶるぶると震えながらただ前方を指しているだけだった。 STAGE1  ナミ  「ところでゾロはどこ?」  この非常時に船の貴重な人手の一人が見当たらないのは霧のせいではないらしい。「まさか寝てるんじゃないでしょうね」  そう言って振り向いた瞬間、ナミは何かにどしんとぶつかり、思わずよろけた。  「おい」ナミの腕を掴んだのは当のゾロの手だった。「何やってんだよ」  「何ってアンタこそ何で急に後ろに立つのよ。返事くらいしなさいよ」  「ああ?」ゾロが片目をすがめた。「テメエこのキョリで返事が聞こえなかったのか?ヤバいぞソレ」  その軽口は無視と決めてナミは歩き出し、前方甲板へと向かった。  すっ、と手のひらが差し出された。サンジだった。「マドモアゼル、ささっお手をどうぞ」  「手すりがあるから揺れても平気よ。それより見張りを続けてよ」  「はいっ」  黒いスーツが白い霧に紛れてすぐにぼやけた。どんどん霧が濃くなっている。マストのてっぺんの海賊旗は見えなくなっていた。  そういえばサンジはいつのまに見張り台から下りてきたのだろうとナミは思った。彼の脚力のことだから、その気になれば甲板へ飛び降りるくらいの離れ業はやってみせそうだが、それにしてもと思う。  階段を下りて左舷に立ったがウソップの姿がなかった。  ルフィのところかと前に行ってみたが、船首像の指定席にルフィの姿もない。  「サンジくん?」  「はーい、なんでしょう?」見えない見張り台から声がした。  「そこに他の誰かが一緒にいる?」  「いえ、俺一人ですよ」  「前方の影はどう?」  「それがもう、霧が濃くって全然見えませーん」  「そう」ナミは首をひねった。「ゾロ?」  返事がない。  「ゾロ?舵のところにいないの?」  ナミは来た方向に戻りかけた。  「舵にはオレがついてるよ」聞こえたのはウソップの声だった。  「左舷の見張りは?」  「ゾロと替わった。方向音痴のヤツにこの大事な船の舵は任せられねえからな」  だがナミが今立っているのがその左舷だ。いくら霧が濃いといってこの距離で気配がまるでしないというのはどうなのだろう。  「ルフィはどこなの?」  「ナミ!」  ルフィの声、のように聞こえたがナミは振り返るのをためらった。  何かがおかしいのではないか。  ぞくっと寒気に襲われてナミは身をすくませた。今、自分が話していたのは本当に仲間たちだったのだろうか、と思ってしまったのだ。  「ナミ!」ルフィの声が呼ぶ。「大変だ!」  ナミは正面に目を凝らし、手で口を覆った。  黒い海がそこにあった。  濃い雨雲が海面を疾走して、白かった霧の世界をまるで夏の夕立の前兆のように昏く変えている。雨の降りはじめのような匂いがしているが、雨はまだ降っていない。それでいて気温が急激に下がっている。典型的な低気圧だ。  遠い水平線の彼方だけがわずかな黄土色に光っている外に見えるものがなくなった。  ナミ!ナミ!  誰かが呼んでいる。しかし仲間の誰の声でもない。  箱に閉じこめられたような圧迫感がナミを襲った。  「誰?」  「ナミ!」今度はよりはっきりと聞こえてきた。  陸地が、正面に出現していた。一瞬、岸壁にぶつかるかと思ったが、ゴーイングメリー号は帆の風を失って自然に停まろうとしていた。  小さな桟橋が一本、見える。人が住んでいる土地のようだ。 でもそれをどこかで見たような気がして、ナミははっとした。  ココヤシ村。  「そんなバカな」  と、思わず声が出る。間違えようのない景色だが、それでも何かの間違いではないのかと、ナミは手すりから身を乗り出した。  そのとき、少し離れた岩陰に小舟が停まっているのが見えた。正確に言うならそれは船ではなく、タコ壷だ。  魚人?  ゴーイングメリー号は上潮に乗って小さな桟橋へと吸い寄せられるように動いている。それでも待ちきれずにナミは手すりを越え、桟橋へ飛び降りた。  村へ続く小道を、ナミは懐かしさを感じる間もなく走り出していた。 STAGE1  ルフィ  「おーい、ナミ!」  羊の船首像から身を乗り出したが、見えるのは霧ばかりだった。  返事はなかった。  「ゾロ!ウソップ!サンジ!」  どの呼びかけにも返事はなかった。ルフィの大きな目が少しすがめられた。  風が麦わら帽子を揺らし、ルフィは手で押さえた。だが、一瞬だけつばで遮られた景色は、ふと顔をあげた瞬間にまったく違うものになっていた。  霧が薄れている。その向こうにいくつもの船影があった。前も左右もいつのまにかたくさんの船に囲まれていたらしい。  大きな船、小さな船、豪華な船にボロボロの船。ありとあらゆる種類と大きさの船がゴーイングメリー号と並走する光景の勇壮さにルフィはどきどきした。  みんなどこへ行くのだろう。  隣を行く中型船の甲板に人影が見えて、ルフィはたまらず手を振った。商船乗りだろうか、気のいい水夫たちが手を振り返してきた。「よおボウズ、どこへ行くんだ?」  「俺か?」ルフィは満面の笑み。「俺はワンピースを目指している。海賊王になるんだ」  はあ?という顔をしたあと、水夫たちはいっせいに笑いこけた。  おーい、と今度は反対側から声がかかり、ルフィは振り向いた。「どこへ行くんだ?」  今度は見上げるほど大きな客船だった。甲板には百人近い人々が、美しく着飾り、楽団の曲にあわせてくるくると踊っている。食器やグラスの合わさる音が響いていて、いかにも楽しそうな笑い声が聞こえてきた。  話しかけてきたのは酔客たちだった。「キミは何をしてるんだい?」  「俺はこの船でワンピースを目指してる」  「一人でか?」  「いや、仲間が一緒だ」  「誰もいないぜ?」  確かに甲板はがらんとしていた。  「どっちでも一緒だ。俺はワンピースを目指すんだ」  「ずいぶん寂しいなあ」誰かが言ったがそれは言葉のわりには優しげな風だった。  「こっちは今パーティーの真っ最中さ。よかったらこっちで一緒に楽しまないか?」  バラリ、と縄ばしごが下ろされた。「来いよ」  「いや、いいよ」ルフィは言った。「仲間も探さなきゃならねえし」  酔客たちはそれで気を悪くするでもなく、縄ばしごもそのままでルフィに手を振って、消えた。  さらに別の船が近づいてきた。たくさんの男たちが忙しそうに立ち働く、古い交易船だった。  「ボヤボヤするな!玉掛けは注意を怠るなよ!」  指示を飛ばしていた男がルフィに気付き、挨拶をよこしてきた。  「お前、仕事はあるか?」  「いや」ルフィは返す。  「ならこの船で働かねえか?お前は見かけよりも力がありそうだから、すぐに山ほど稼げるぞ」  「俺はいいよ」  「っていうかウチは今、人手不足なんだ。荷の注文はいくらでも来るんでフル操業と行きてえところなんだけど、これだけ給料はずんでるってのに肝心の人が集まらねえ。一航海だけでもいいから来てくれないかな」  ルフィは肩をすくめた。「俺は俺の船でワンピースを目指してるんだ。だからそっちには行けねえ」  「おいおい」男は首のタオルで汗を拭いた。「お前、それ本気で言ってるのか?あんなのはただの伝説に決まってるだろう?いつまでも夢見てねえで、ウチの水夫みたいに毎日しっかり働きな。その方がゼッタイ確実だよ」  「いいんだ。俺は俺のやりたいようにやるから」  「そうか」男は頷いた。「じゃあもし気が変わったら、俺に言ってくれるか?仕事はいくらでもあるから」  「ああ」  男と船員たちは遠ざかる間、ずっと手を振っていた。いい奴らだなとルフィは思った。  でも俺は俺のこの船で行くんだ。  ルフィは羊の船首像の頭をぺしぺしと叩いた。こうして舳先で受ける風がいちばん気持ちいい。いつだって前を見て進んでいたい。  ふいに視界がひらけた。船の影がまばらになり、やがて一隻を除いてすべてが消え去る。  残ったのは海賊船だった。マストのてっぺんにひるがえるジョリー・ロジャーは左の眼窩に三本の傷を走らせたもの。  赤髪海賊団の旗印だ。  ルフィの大きな瞳に誰にも見せたことのない、険しい影が落ちた。  追い風が、向こうとこちらの距離を詰めてゆく。近づいてゆく。  三本マストの美しい赤髪の船も、小さなゴーイングメリー号も、どちらもとても静かだった。たぶん誰もいないのだ、とルフィは思った。自分の船から仲間が消えてしまったのと同じように、赤髪の船からもクルーは消えているのだろう。  だが船長は。  二階建ての建物ほどにも高さの違うその船へ、ルフィはぐんと腕を伸ばした。羊の頭を軽く蹴ると体が弾けて飛びあがる。  甲板にはやはり人影がなく、ルフィの着地する音だけが耳障りに響いた。 STAGE1  サンジ  霧が雨に変わっていた。  海に降る雨はいつも俺をゆううつにする、とサンジは思う。人生の大部分の時間を船の上で過ごしていると、時に確かな陸地の感覚が遠くなることがある。そんなときに雨が降ると、頼りの水平線のありかまでがあいまいになって、まるで自分が水の中を進んでいるような気にさせられるからだ。  風が息をして、雨の粒が大きくなる。頬を打つ雨だれが決して消えない記憶を呼び覚ます。その痛みはすでにサンジの人生の一部になっていた。  抵抗することのできない記憶のなだれに、サンジはいつも仕方なくだが身を委ねていた。  赫足のゼフ。  彼がサンジの目の前に現れたのも嵐の日だった。  嵐は、あるいはサンジにとってゼフの存在そのものでもある。海上レストラン・バラティエを去ってからその思いは確かなものになった。  俺は、生きている。  その事実が、打ちつける雨のようにサンジの髪を濡らし、膚を冷やし、服をずっしりと重くして肩と背中を鈍らせ、そして足元に溜まる。  サンジは靴を見る。  左右一対あることが、時にふと不自然に見えることがある。  ゼフは右足をなくした。それは世界中の海の男どもを震えあがらせた伝説の赫足でもあった。  食ったのは、俺だ。  そこまで考えてサンジは顔をあげた。考えるなというのが無理ならば、せめて考えた後はすっきり忘れようと決めていた。  その瞬間、船底に衝撃が走った。帆はたたまれているが上潮にでも乗ったのだろう、いつのまにか岩くれの岬に近づいている。それで暗礁に乗り上げたのだろうが、さいわい船底は岩を離れて浮いているので今のうちに投錨しておけば嵐をやり過ごせそうだ。  「ナミさーん!」  返事はない。どころか他の誰の気配もない。船がからになることなどあるのだろうかと思いながらとりあえずは自分一人で碇を下ろした。  「おーい」  まさか衝撃で全員が海に落ちたのだろうかと思ったとき、右舷で縄ばしごを落とす音がした。サンジはすぐに走った。だが誰の姿もなかった。  岩くれの岬のほうに影が動いた気がして振りあおぐ。  サンジの手は縄ばしごにかかった。いったい何なんだと思いながら動かずにはいられなかった。 STAGE1  ゾロ  濃い霧に視界を遮られていもその音はゾロの耳にはっきりと捉えられていた。  「ルフィ!船がいる!すぐ右に併走してるぞ」  船べりが波を切る音が、船全体が揺れにきしむ音が、風を受けてバタバタと鳴る帆の音が、ゴーイングメリー号のそれとは別にもう一つ、確かにあった。  姿は、依然見えない。  だが殺気が押し寄せてくる。敵は多い。  ぴりぴりと神経が張り詰めるのを、ゾロは刀に手をかけて平常へと押し戻した。  ルフィをもう一度呼びたかったがもう声を出すのは得策ではない。ルフィは、それにサンジやウソップ、ナミはどこにいるのだろう。  進行方向をすばやく見ると、霧がわずかに薄まっているのが分かった。白い霧の隙間のようなところへ船が入れば、隣の船も見えるに違いない。が、それは向こうからもこちらが見えることに他ならない。  仕掛けてくるとすれば、そのタイミングだろう。  そうして霧が消えた。  右舷、ゾロの真正面に現れたのは傷だらけの古い船だった。マストは三本。全長はゴーイングメリー号の三倍はある。  ヒュッと音がして、鉤爪のついたロープがゴーイングメリー号のマストに投げかけられた。振り仰ぐと、その幽霊船の高い甲板からロープを使って乗り移ってくる手合いがいる。  白兵戦かよ、とゾロは笑った。刀はすでに二本を抜き払っていて、三本目の白い刀が待つばかりだった。  「暴れてやるぜ!」  ゾロは上部甲板へと駆け上がった。階段で出合い頭の一人を斬り伏せ、倒れかかってきた体をかわして蹴り飛ばし、その後ろのもう一人もろとも転ばせる。その二人の落ちる音と同時にさらにもう一人を袈裟斬りにしてやった。  力の差は歴然としているが、ただ人数が多いのが厄介だとゾロは思い、上部甲板に降り立ったさらなる3人を一気に追い詰め、海へ突き落とした。  それにしても、ルフィやサンジは、ウソップはどうしてるんだ。  前方甲板と上部甲板をぐるりと見渡したが、見えるのは敵兵ばかりだ。ミカンの木の向こうは今は見えないが、あるいは船内にいるのだろうか。  ガタガタッと何かが激しく打ち倒される音がして、ゾロは翻った。  続いて悲鳴。  ゾロは後部甲板へと走った。「ナミ!」  姿が見えないからてっきりサンジと一緒なのだと思って油断した。サンジもサンジで、普段の騎士気取りがこの肝心なときにナミを危険にさらすようではまるで意味ないぞと思う。  ヒュッと風を切って縄ばしごが引き上げられるのを見て、ゾロは迷わずその端を掴んでいた。滑車でも使っているのか、体が幽霊船の船げたの高さまで苦もなく一気に引き上げられた。  飛んできた短剣をなぎ払って落とし、甲板に降り立つ。  「ナミ!」  人影は、ナミも敵も含めてまるで見えなかった。ただ、丸窓のついた扉が一つ、揺れている。  ゾロは白い刀一本を残して後は鞘に納め、狭い船内での接近戦に備えた。  すぐに飛びこむバカはしない。  だが扉の先にも気配がないことはすぐに分かった。 STAGE1  ウソップ  鐘が、鳴り響いていた。  故郷の村の教会の鐘の音に似ていた。  行く手はただただ白い霧の世界で、もうこの船が進んでいるのかどうかも怪しくなる白さだったが、前方から確かにその鐘の音が伝わってくるのだ。  先を睨んだまま、ウソップは言った。「知ってるか?白い霧の中で鐘の音に導かれていくと、死者の国へ迷い込んじまうんだ」  「へーえ」見張り台の上からサンジの声がのんびりと返ってきたが、ウソップは前方を見たまま。  「バラティエのあのじいさんにそういう話を聞いたことはないのかよ」  「ねえな」即答だった。「っていうか、あのクソジジイに教会の鐘の音なんてクソ似合わねえよ」  「お前がクソクソ言うからよけい似合わなくなるんだよ」  「それは」とゾロ。「ウソップが正しいな」  「うるせえクソ剣士」  飽きない奴らだなとウソップは思った。「それじゃあお前ら、これ知ってるか?死者の国で自分が実は生者だってことがバレちまったときはどうしたらいいか」  「なんだそりゃ」サンジが言った。  「死者にトリ殺されない秘けつだよ」  「行ったことねえから分かんねえよ」  「それじゃあ、おそれおおくももったいなくも、このキャプテン・ウソップ様がじきじきに教えてやるから耳の穴かっぽじって拝聴しろ」  「へいへい」  「その秘けつとはすなわち、どんなにしつこく聞かれてもゼッタイに自分の名前を言わないことだ。ヤツらは名前を呼んで引きこむんだよ」  「は〜」船の速度が上がりそうなほど大きなため息をついてみせたのはゾロだった。「お前、それウソだろ」  「いや、これだけはウソじゃねえ。誓って本当だ。勇敢なる海の男の金言だぜ」  「じゃあ、なんでおメエは聞かれる前から思いきり名乗ってるんだよ」  「?」  うひゃひゃとサンジの笑いこける声がした。「ちげえねえ、死者一名決定だぜ」  ゾロが笑い、ウソップもつられた。  が、それはすぐに止まった。「おい、ありゃなんだ?」  前方に黒い影が見えた。順当に行けば島、という感じの大きさだった。いつのまにか霧が薄らいでいたことに気付かなかった。  高台とおぼしき場所に灯台か尖塔のような建物が見える。  鐘はあそこでなっているのだろうか、とウソップは目を凝らした。「サンジ!」  返事はなかった。  「おいサンジ!」  ウソップはマストのロープをたどって見張り台に上がった。だがそこにサンジの姿はなかった。下りたのかと思ったがそれにしても音も聞こえなかったし、何か不自然な気がした。  「ゾロ!」  下に向かって叫んだが、こちらも返事がない。霧はだいぶ薄らいだのに、甲板の上の人影が見えなかった。  鐘が、いっそう高らかに鳴り響いた。  「ウソだろ?」  一人で呟き、つばを呑む。  今や誰も舵を取っていないというのに、ゴーイングメリー号は真っ直ぐに鐘のなる丘を目指し進んでいた。  というより引き寄せられていた。  丘の下は小さな入り江になっていて、その入り江の奥に船のつける場所があった。この船にはまるでおあつらえ向きの高さの桟橋まである。どこかで見たような風景だとおもったウソップはそれがこの船の母港にそっくりなのだと気付いた。  「そういう、どこか懐かしい景色ってのがいちばんヤバいんじゃないのか?」  ウソップは手すりを握りしめた。長い航海に疲れた魂に、海の悪魔は故郷に似た景色を見せ油断させると言うではないか。  船が、すうっと桟橋にたどりついた。  ヤバいヤバいと言いながら自分の足が桟橋に降り立ち、靴音を立てているのをウソップはどこか他人事のように感じていた。  引き返せよ、と声に出して自分に言う。だが足は勝手に草を踏み、緩い坂を上り始めている。  せめてルフィたちと一緒に行けよ。  だが消えたのが見張り台のサンジだけでないこともウソップには分かっていた。  ヤバいぜ本当に!  だがそこでふっと、ウソップの頭に疑問がひらめいた。  今の状況がかなりヤバいということを俺はどうして知っているのだろう。さっきまで話していたあの話、 死者に引きこまれないための秘けつを、そう言えば俺はいったいいつ誰から聞いたのだろう。  答えが、というよりそのヒントのようなものが、この足の向いている先に待っているのではないか、とウソップはこれもぼんやりと予感していた。