プロローグ  ミホークの船  海は鏡のように凪いでいた。  月が、その水面を無機質に照らし出している。  見渡す限りどこまでも平らかな青い光の中に、黒い小舟が一艘、帆をたたみ、錨を下ろし停まっていた。  中には、男が一人。  夜よりも深く黒い十字架の刀を傍らに、仰向けの腹の上に手を組んで眠っている。息はまるでしていないかのように浅く穏やかであった。  男の意識が、ふとわずかにひらく。しかしそれは体の覚醒を喚ぶものではなく、夢の中で目をあけたような不思議なものだった。  ――たすけて  女の声がする。  ――力を貸して  女が訴える。  俺に何の用だ。男は意識の海の浅瀬で呟く。体はまだ目覚めず、組んだ指さえぴくりとも動かなかった。  ――あの子を、助けたいの  風が、ほんのわずかに生温かく、男の膚を撫ぜてゆく。  男は女を見た。  ぬしは強いであろう。男は言った。守ることに何のためらいもあるまい、と。  だが女は否定する。  ――船が、迷いの海へ入ってしまうので  迷いの海。男が繰り返す。  ――あなたの力を貸して  女の腕が男の体へ回り、その額が男のシャツを着ていない胸へと押しつけられる。  男の脳裏に見えたのは、中型のキャラベル船が一隻。  マストの旗と帆の前面にどくろを描いた海賊船。船首は羊の頭部像。  俺はこの船を知っている、と男は気付いた。  ぬし、何者か。  女のことは、知らない。しかしどこかに何らかの縁があるのだと男は思う。  女は泣いていた。  俺は、何をすればいい。  男が言うと女は腕の力を緩めた。男はふっと息をつき――  そこで目を覚ました。  胸の上に重みを感じる、手足の感覚のない、少し嫌な目覚め。男は意識を延ばして己が手足のありかを確かめ、ごろりと半身をひねった。首から提げていた十字架が胸を滑り、シーツの上に落ちた。  音もなく、風もない、月の光だけが晧々と冴えている青い夜の中に自分の意識が戻ってきたことを、男――ジュラキュール・ミホークはぼんやりと知覚した。  船室の、棺おけのように狭い寝床の中に、自分はいる。  それだけ分かれば充分だ。女が言うには朝まではすることがない。  ミホークは一つ意識的に息を吸い、そしてゆっくりと吐いて目を閉じた。がっしりとした肩が上下し、そして心はふたたび眠りの泥へと沈む。  海の、鏡のような水面にはさざなみ一つ起きなかった。 プロローグ  ゴーイングメリー号  「何かヘンだわ」  ログポースの指針を見ながらナミは言った。  もうじき日の入りで、海は黄金の色に染め上げられている。食堂を出て手すりの前に立ったナミの顔も、その残照に彩られていた。  見上げれば、わずかな風に膨らむ帆と、その向こうには夕闇の空が広がる、少し物悲しい景色がある。  「どうした」  一段下の甲板からゾロが尋ねた。いつもどおりにゴロゴロしているとばかり思っていればこんな時に限って独り言を聞きつけるのだから、とナミは思う。  「下から見上げンじゃないわよ」思わず悪態が出るが、これには反応がない。  コツコツとゾロの靴音が階段を上ってきた。緑の髪が名残の日を受けて少しきらきらしていた。  「それ」とゾロがあごでしゃくった。「どうかしたのか?」  ナミは笑顔を見せたが、こういう時にはいつも笑顔でごまかすのが自分の悪いクセだと気付いたのはこの船に乗ってからだ。  仲間なんだから垣根はなしよね、とナミは舌を出した。  「針の振れ方がね、ちょっとヘンかなって気がして」  「どんな風に」とゾロ。  「うーん、なんて言ったらいいのかしら。ひっぱられてるっていうのか、まっすぐになりすぎているっていうのか」  「指針がまっすぐじゃなかったら困るだろ」  「そうじゃなくって、船全体がね、なんかこう、ゆるい坂道を転がってるみたいな」  「お前なあ、海のどこに坂道があるってンだよ。ウソはウソップにまかせとけ」  「ああもう!」  ゾロの背は食堂の扉の向こうに消えるところだった。開いたドアからサンジの作る夕食の香りがふわりと漂ってきて、ナミも何だかばかばかしい気分になる。  続いて食堂へ入ろうとして、ナミは船の行く先にもう一度視線をやった。  日は水平線の向こうへ落ち、海も空も深い藍色に変わっている。温かい色はもうかけらもなくなっていた。  帆が、追い風を受けてバサバサと鳴る。船の速度が少し上がった。  転がるスピードが増している。そんな思いを押し切るようにナミは扉を閉めた。湯気と香りにふわりとくるまれてナミはホッとする。  中にはコックのサンジはもちろん、先に入ったゾロに、ルフィとウソップもいて、全員が揃っている。温かな食卓がナミを待っていた。