連載小説 『鷹王の帰城の物語』 第5章  クロコダイルのみち  「お父様!」  祭壇に立ち尽くしていた王を我に返らせたのは、娘ビビの声であった。  雨風を掻き回すように羽ばたきをして舞い降りた須荒の背に、果たして王女の姿があった。彼女は須荒の蔓の体内に秘められて安全に匿われていたのだ゙が、ゾロとエネルと、そして鷹王ミホークの気配の去った今、解き放たれ送り届けられたのだった。  「お父様、いったい何が」  だが王女と王は、祭壇の端に現れた奇妙な男を見とめてハッとした。  神殿の警備が慌てて駆けつける。男は神殿唯一の出入り口より進入したのではなかった。  「ネフェルタリ・コブラよ」  突如割れ声で王を呼びつけたこの男は、身なりこそ悪くはないが汚れて酒臭く、どこか堕落の諸侯貴族を思わせた。しかしその顔を真一文字に横切る大きな傷と、左手の鉤型の義手が極めて忘れがたい風貌であるにもかかわらず、誰も思い当たる節がない。  男にしても眼前の王を王と知りながら、態度にいささかの変化も見せず、ニタリと笑った。  「お前が井戸に石を投げこんで父王に叱られたことを俺は覚えているぞ」  「――」  あれはただ、子どもの好奇心から井戸の深さを知りたかっただけなのだろう? 俺は分かっているさ」  風が強く吹いたが、先刻に雷神エネルの起こしたそれとは異なり、湿り気のあることに王は気づく。  ポツリ  と。見上げた顔に長く乞い希(ねが)い続けた雨が、ついに当たった。  「王よ。気の毒したな」  遠くで声の上がるのが聞こえる。雨粒が今ははっきりと大地に染みなして、国中を潤してゆくのも分かる。  そしてバタバタと駆けつける足音は、雨の降ったことが生贄たるビビの使命の全(まっと)う、すなわち落命を示すのではないかと胸潰す思いで駆けつけた臣民たちだ。  だが、王が振り返ると男の姿は雨の白条に紛れ、かの妖王の沈んで行ったのと同じ場所へと消えていくところであった。  王は、その場所に駆け寄り、ぬかづいた。  「あのお方こそ、この国の雨神様であらせられたのだ」  降り続く穏やかな雨を窓外に見やり、コブラ王は目を細めそう言った。親衛の者たちとビビ王女は心底意外という顔をした。  「身なりで判ずるべきではない。何より私の子ども時代のいたずらもお見とおしであったし、雷神の『酔って寝ている』との言にも一致する。まったく気まぐれな神を我らは戴いたものよ」  だがビビ王女の顔は曇ったまま。「あの剣士様は」  王も深く頷く。「雷神エネルに気を取られ、誰もあの妖王に気づかなかったのが不覚」  ひと働きさせられた、とエネルをして悔しがらせたのだから、それこそ人には避けようのない業であったのだろうが。  「命与えると言っていたのを慮(おもんぱか)れば、よもや最悪の事態はないと思いたいが、あるいは雨神様が後を追われたのも策あってのことかも知れぬ」  雨の降り続く規則的な音が無音よりも深い静けさをなして、夜を包んでいる。その下で、遮るものもなく須荒が雨にぬれていた。ビビが言葉をかけても動かず、聖なる井戸、かつてコブラ王が幼少に石を投げた、国中で最も深い井戸の傍らに居続けて、まるで耳を傾けるかのようにしている。  実際、その井戸の底、人の行くこと叶わぬアラバスタの地底の水脈の中に動きはあった。  「よお」  アラバスタの雨神が声をかけるとその闇――鷹王ジュラキュール・ミホークが振り返った。  「久しいな。クロコダイル」  「まったく派手にたたき起こしてくれたもんだ」  地底の天然の神殿に二人は立っていた。しかし床はなく、あるのは深く湛えられた純水の輝く青い地底湖で、鷹王の足はその水面に静止していた。対するクロコダイルは己が大殿に戻った今、半身を鰐の尾へ、つまりは本来の姿へと戻して水中より身を出している。  鰐王(がくおう)クロコダイルが笑んでみせた。「用があるんだろう? でなきゃ貴様はここまで下りぬ」  鷹王は懐の中にしまった人間――ゾロを垣間見せた。「この者と共にぬしのみちを通らせてほしい」  はあ? とクロコダイル。「人は溺れるぜ?」  「今は命抜き取ってあるゆえ問題ない」  「酔狂な」その声が非難めく。「そもそも、鷹王ともあろうものが何たるザマだ」  クロコダイルは鰐の尾をくねらせた。水面が揺れたが鷹王は静止したままだったので、そのブーツが水をかぶった。「この俺以外にはとてもじゃないが見せられぬザマだな」  「いかにも」と鷹王ミホークにも笑み。  クロコダイルの笑い声が地底の洞に反響した。「よかろう。領内のあの湖までなら送ってやるに造作もない」  「助かる」  「かまわんさ」クロコダイルは身を翻した。「人一人運べず難儀する貴様が見れたのだ。充分に愉快というもの」  「ヒマは紛れたか」  「ああ」  しかし裏腹にそのきんいろの目は曇る。「ミホークよ。しかし紛れるはほんの一時よ。俺も今は、貴様の言う無聊というものが身にしみるようになった」  「ゆえに酒に溺れたのであろう?」  鷹王の脚が水に沈み始めた。  クロコダイルはごく微かにだが首肯したようであった。「その人間は面白くなりそうか?」  「さあな」 ミホークは黒いつば広の帽子を取ると、それで懐のゾロの頭を庇うように押さえた。水はすぐにその胸の辺りまでを浸し、ゾロの身が沈む。「どうなることか」  やがて鷹王の黒髪もが水の下へと没する。クロコダイルは嘆息してそれを見送った。  「分からないか。だがミホークよ、分からないってのは最高に面白いことじゃあないのか? ええ?」  渦が、青い水底へと吸いこまれていった。