今は昔の物語――。
東の海の小国に、美しい姫君があらせられた。
御名(おんな)は、くいな姫。御歳は十九。
父王コウシロウと、すべての臣民たちとに愛されて、すこやかに花の咲くように生い立ちたまいしこの姫君は、細くたおやかな御身に子猫のごとき機敏さを持ち合わし、誰よりもよく白銀の剣を遣いこなされた。華美な衣装など好まれぬも、その黒髪、その躍動の輝きはいかな絹織物や宝玉よりもまばゆいて、それゆえいっそうに愛らしい御方であったのだが。
かの国に『うつくしき子は鬼の魅する』というように、くいな姫にも魔の忍び寄ることとなる。
はじめにそれに気付いたのは――剣士ゾロであった。
ゾロは幼少より姫とともにあり、また早くより剣士としての稀なる才を見せてもいた。入隊年齢に届かぬ十七才にして既に親衛の隊に敵う者なき手練れとなりて、王のもと、姫の御側に仕えていた。
そのゾロをしてくいな姫の剣のお相手には力足りず負け続けとあっては親衛もあやしいものよと言われもするが、ゾロはそれを腐ることなく一心に仕え、そうしてかの異変を見切ったのだから、やはり才あるというべき者なのだろう。
――あいかわらず弱いわね
その日もゾロの刀を勢いよく弾き飛ばし、姫は鈴を転がすように笑んでいらした。
だがいつもならば悔しまぎれに不躾な悪態もつくゾロが、この日は静かに口をつぐむ。
御庭は、芝草の緑に奥は枯山水。その境目あたりにゾロの刀が落ちて刺さっているだけの静けさで、しかし西の空には雲の出て、湿りの含まれた風がとろりと吹いていた。
「今日もまた、妙な手を使うじゃないか」
ゾロはいつもの口調ながらどこか探るようでもあり。
足の甲へと切っ先を突くように見せかけて、低く深く潜ってみせた体さばきから、一転刃を押し上げて相手の体を浮きあがらせる、そこから返して刃の根元で胴を切りつけてくるまでが、ほんの一瞬。
誰に教わったんだ、という質問をゾロは呑んだ。それは昨日も問うたことだし、姫はそれには答えなかった。
城には外国からの賓客も逗留している。だがその中に剣士や、そうした文献に明るい知恵者のいるという話は聞いていない。なのに姫はこのところ、次々と新しい技を繰り出してみせ、強さに磨きをかけていた。負けおしみでなく、姫には誰ぞ強力な指南者がついたとしか思えなかったのだ。
それに昨日は昼間にこくりこくりと舟こぐ姿を見せてもいた。深更に特訓をしているのではなかろうか。
そうした思いから、ゾロは夜半に侍女を拝み伏し、姫の寝所の隣室に忍び控えたのだった。
かの侍女には、一介の剣士としてその謎めいた稽古を見たいのだと動機を口にしたのだが、このとき既に不穏な予感もあったのだろうか――的中したのは果たしてその後者で。
寝入ったはずの姫が起きいだし、寝間着に白剣一つを携えて濡れ縁に立つと月の光の下へ出た。
と、その眼差しの先に、剣士のゾロにもいつからと知れず、一人の来訪者の姿がある。
「ごきげんよう、くいな姫」
白い羽飾りの異国の帽子を手にとって、影が頭を垂れて言う。強(こわ)い黒髪に、油で整えた黒い髭。黒いマントの高貴ないでたちに月の光を吸いこんで、それは血よりも赤い目をきらりとさせて、庭先に闇をこしらえ佇んでいた。
姫は怖気(おじけ)もなく、むしろにこやかに手をさしのべて、男の優雅な接吻をそこへ許す。だがゾロにはそれがどうにも禍々しく悪寒のするものに思われてならなかった。
「姫、今宵もお相手くださるよう」
来訪者は蒼白く尖った歯を見せて笑み、手を取り姫を招じると、庭の中ほどに間合いを取って立ち、その手に大きな十字架の形の剣を顕した。黒い刃に姫が白剣を合わされれば、そこからぼうと濃い緑色の光が立ち上る。
二人はそれから踊るように軽やかに剣を交えた。
来訪者の太刀筋は王族を思わせる優美さで、合わせる姫にしてもゾロ相手のそれとはまるで異なる威厳を備えて見せる。舞踏会ならば皆が自らの踊りを止めて魅入るような、それは幽玄の捌きであった。
何より、とゾロは思う。この男は姫の剣に後れを取らぬ。どころか合わせつつも姫を導き、見なれぬ剣技を披露しては姫の興趣を満たしてさえいる。それはゾロにしても同じことで、初めて見る剣の高みに見とれたために、この侵入者の手を妨げることなく傍観してしまったのだが。
ひとしきりの剣技に満足した二人はそこからは一転、本物の舞踏会のように手を携え合い、互いに笑みながら濡れ縁へと並び掛けた。だがゾロはそれも遮ることができずにいた。来訪者は姫の手へ頬を寄せ、姫も緩やかなまばたきを返される。剣の手合わせにせよ、この浪漫的な奉仕にせよ、いずれもゾロには供し得ぬものばかりで、姫がそれを喜ばれているのを判じるにつけ、割って入る不粋を心得ずにいられなかったのかも知れない。
やがて来訪者がゆうるりと立ちあがり、惜しみつつも姫のもとを離れると、払暁の闇の中にすうと溶けてゆく。姫はそれを目の当たりにしながら驚くことはせず、むしろ切なげにさえして立ちあがられると、ゾロの潜む部屋の前を横切り、自室へと戻ってしまわれた。
ゾロは事の次第を夜明けを待たずに王へと奏上した。王もゾロの言葉を疑わずすぐさま文章博士(もんじょうはかせ)を召しつけて記録と照らさせる。
浮かび上がった名はひとつ、鷹王(ようおう)ジュラキュール・ミホーク。
西の国のいでたちながら出自は不明。身の丈よりも巨きな黒い十字架の刀を操り、その技は人に比類なし。また人と妖(あやかし)とを問わず、その一瞥で心身を縛す力を持つと言い、その鷹のごとくに鋭い眼光から「目の妖」として畏れられ、妖王、または鷹王と称されている。
その妖王が、くいな姫を誑かしているのだった――。
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