『白日鬼』  辰巳  海でそうした光景に出会うのは、ごくまれではあったがありえないことではなかった。  夏至の太陽の重苦しい圧力と、海面の容赦ない平かさの間に挟まった状態で、黒い船がゆるゆると隙間を這っていく。  その航中で、珍しく別の船に出会った。  メインマストが無残に折れて漂うだけの哀れな状態で完全に制止している。黒い船が近寄ると、その立てた波さえもが苦しいかのように身をよじり、船げたがパシャパシャと水音を立てた。  黒い船の中央に立つ一つの影は、白い光の世界にただ一つの闇を作ってそれを見ていた。  ジュラキュール・ミホーク。黒い船の主の名はそう言った。  背後に十字架の形の禍々しい暗黒の刀を背負い、しかし刀よりも数段に禍々しい、毒のように赤い目をしていた。その目は、荒くれで鳴らす船乗りたちでさえ航海の最中に出会うことを忌み嫌う「死んだ船」を、まっすぐに見すえていた。  船は、難破し、漂流してそこに在るのだった。  船員は。  ミホークの手が荒縄を取り、その船へと投げた。先端の鉤は重く弧を描いてミホークの視線よりもやや高い位置の、相手の船べりを捉えた。  縄は船同士が離れないようにするためのものだったので、ミホーク自身は縄の助けを借りることなく、船を乗り移る。  甲板が、熱く乾ききっていた。  その上に三人の男の体が、手足を投げ出し、力尽きて倒れていた。ミホークは日に眩しい純白の羽飾りのあるつば広帽子をとって、わすがに顎を引いたようだったが、それでも表情を変えることはなかった。  いま一つの遺体が、ドアもなく天井も吹き飛んだ小さなキャビンの机に突っ伏していた。抱えていた革装の本は航海日誌だった。  ミホークはその本を死者の腕から預かった。腕が机の端からだらりと垂れた。  表紙の箔押しには「ミュラ」の文字があった。  船乗りを守護する聖人の生誕地を船名に戴いた船がこのような末路を辿ったことは、ミホークの哀れを誘った。  だが、身を返そうとしてミホークはコートの裾が何かにひっかかったことに気付いた。  難破船の割れた木材にでも、と思ったが、それは先刻机の端から垂れ下がった腕の、その指であった。  裾が、掴まれていた。  ミホークは初めて目を眇めた。世界最強の身が、衣服の裾を掴まれて気づかなかったというのは心底予想外だった。それは自惚れではなく、世界一の座に着くより以前から許すことのめったにないものであったからだ。  生きていたのか、としかしそのこともまた意外であった。見た目が死んでいるように見えた、からではなく、僅かながらにも命の灯の灯っている者に対し、己がそれを死体と見誤ったこと、それが服を掴まれること以上にありえないことであった。  ミホークはその驚嘆をしかし暫く無視して、男の顔に顔を近づけるという行動に出た。  男に息はなかった。だがその喉からは僅かに、ほんの幽かに、囁きが聞こえてくる。  ――あいしている  ミホークは「ああ」と答えた。  「必ずや伝えよう」  だが、干からびた指はミホークの黒いコートを離さなかった。  ――あんたをあいしている  そしてはっきりと告げた。  ――死の天使  ミホークは、しかし眉を上げることもなしに淡然と応えた。  「いかにも」  声は本当に途絶えた。  ミホークは四体の遺体を、自分の寝台の敷布までをも剥ぎとってそれぞれ包み、水葬にした。結果的に相手の言葉と食い違っていたとはいえ、自分が必ず告げると約束したことは守らんとし、ミホークは葬送の前にそれぞれの遺体から遺品を取っていた。  そうして三日を要して港に着いた。  海軍の屯所に着くと、ミホークが尋ねるまでもなく船の所属は知れた。一月前の嵐で行方が知れなくなっていた近港の漁船であった。  調書を一瞥しただけでミホークは屯所をあとにし、その港へと船を進めた。1年でいちばん日の長い夏至の週に、既に夜の訪れる時間であったが、海軍からの連絡を受けたのだろう、港湾管理局が探照灯の灯りを海へ投げてミホークの入航を待っていた。  波止場の突端には二人の若い女と一人の老婆がいて、既に涙に濡れた顔でミホークを出迎えた。  ロケットペンダントを手に提げると、その中の写真の女がそれを受け取った。  「最期の時に、間に合って?」  「ああ」  「彼はなんと」  「あいしていると」  次に古い指輪を差し出すと、老婆がそれを受け取った。  「私の伴侶の形見を息子に譲ったものです。間違いありません」  「ぬしに、あいしているとことづかった」  老母がやる方なく、ミホークの手を取り泣いた。普段であればこの男の手を取ることなど、誰も望まないはずだったが、今はそれさえ厭わずすがる老母の悲しみがミホークには哀れであった。  色のあせた帽子を取り出すと、今一人の若い女がそれを両手に押し抱いた。  「結婚した年の誕生日に私が贈った物です。こんな形で戻るなんて」  「貴方をあいしている、そう伝えると約束した」  若妻は帽子を抱きしめ崩折れた。こんなことのために買ったんじゃない、と悲鳴のような声を絞り出したきり、もうミホークの顔は見なかった。  最後にミホークは航海日誌を差し出した。  「今一人は船長であろう。これを抱えていた」  だが、女たちと港湾管理局の者たちは一様に怪訝そうにした。  「乗っていたのは、行方知れずになったのは全部で三人です。彼らは仲の良い義兄弟でした」  「船長は、指輪の主の、長兄です」  ミホークは、少しの間だけ表紙を見た後、それも老母に渡した。  「記憶違いだったようだ」  実際、水葬に付した遺体の数を間違えることが起こるはずもなく、我ながら苦しい言い訳だとも思ったが、ミホークにそれを質す者などやはりなかった。  四番目の男は、あるいはあの老婆の伴侶だったとかいう、指輪の元の主であろうか。ともあれ死者ばかりの乗った船に、自分はからかわれたのだ。  アンタヲ アイシテイル  その口調を思い出すと、知れず眉が険しくなった。自分が人並みの感情を抱いたことが、死者にはそれほど滑稽であったか、と。  俺は生きているのだ。俺のかけた情けに、仇を返すような真似をするな――。  この港には二度と来ない、そう決めてミホークは青白い苛立ちをちりちりと膚にまとわせた姿で自分の船に乗りこんだ。  そうして、もやいをわざわざ黒刀で斬った。  白日の鬼どもをその故郷へと完全に置き去りにし、夜の闇の中に安息を得るための一閃であった。