V・ヘルシング教授の手記  ――日記の終わりより後に起こった出来事を、私の記憶が確かなうちに書き留めておくことは私の義務であろう。今こうして生きてペンを執ることのできる奇跡への、これが私にできるただ一つの返礼であるような気がしてならない。  ミホークが窓の外から尖塔へと飛梁を伝って渡り切る離れ業を見せた後、嵐はいよいよ雨を伴い激しく荒れ狂った。  暫くして彼の脱走が知れると城内もまた騒がしくなった。灯台にいたのだろう、全身ずぶぬれの伯爵がマントの裾から雨水を滴らせたまま私の居室へ飛びこんできた。私は正直に見たまま聞いたままを伯爵に伝えた。ミホークが見たというなら船は確かにいると。  だが意外にも伯爵の説得に私はそれ以上の言葉を要しなかった。ミホークが言ったことはすべて海軍と伯爵の掴んでいた情報に合致していたのだ。  ただ一つ違っていたことは伯爵たちが襲撃の刻を見誤ったことであった。嵐は予想以上に大きく操帆などできはしない、ましてやこの闇の中で接岸は不可能だと誰もが思いこんでいたのだ。  そう、普通に考えればそれで正しかったのだ。しかし略奪者たちは普通ではなかった――彼らの中に悪魔の実の能力者がいたのだ。  結局、私掠船の情報を村人に知らせたのはそうした理由からミホーク一人であったのだが、村人が耳を貸すはずもなく、ミホークは徒労のうちに城へと引き返してきた。そしてまっすぐに私の居室へと来て伯爵と鉢合わせた。伯爵がとっさに十字を切ったのも顧みず、城の守りを固めろ、もうそこまで来ていると言い、解せぬ伯爵に窓の外を示してみせた。その指先に嵐の他に見えるものは、私たちにはなかった。  しかし伯爵が「見えないぞ」といったまさにその瞬間、城の石に振動が走ったのである。  これにはさすがに伯爵も窓から身を乗り出した。それでもまだ見えない。ミホークだけが崖下に掘りこまれた船着き場の内で伯爵の船が打ち壊されたことを見知っていた。煙が出たらしいのだが火の手が上がらなかったので我々には見えなかったのだ。  続いて振動。これはもう見るまでもなく、船着場から城へと続く石廊の入口が吹き飛ばされたものであった。  賊が、あの狭くて急な石段を踏みしだいて上がってくる様子が今度こそ私にも見えるような気がした。伯爵も事態の急を知り、部屋を飛び出した。  「罠を起こすぞ」伯爵の声がすると侍者たちがいっせいに散った。城には外敵の侵入に備えていたるところに機械仕掛けの罠があり、普段は動かしていいなそれを発動させることを『起こす』と呼ぶのだ。もちろん罠が目覚めれば城内の人間たちも自由な移動はできなくなる。だから侍者たちはその伝令に走ったのだ。  私はミホークに引かれて秘密の抜け道の入口まで走った。この時初めて気づいたのだが、彼は雨でずぶぬれたマントの下に白い寝巻き一枚しか着ていなかった。だがまたしてもの振動と、今度はわずかな閃光を私も見た。(てっきり火薬の爆発かと思ったのだがそれは違っていた)。服には構っていられなかった。  私を小さなくぐり戸へ押しこんだミホークが踵を返したのを見て、私は慌ててその肩口をつかんだ。どこへ行くのだと問うと自分も闘うと言う。なぜ、と私は彼を怒鳴りつけていた。君は子供ではないかと。  しかしミホークのその時の顔は頑是無い子供のものなどではなく、いうならば森にたった一羽で棲みなすあの鷹そのものであった。暗闇の中であの赤い瞳だけが燃えているように見えて私は思わず手を離してしまった。何か、そうしていることがひどく不遜に思われたのだ。  ミホークは鷹の目で私を一瞥した後、黒いマントを翻して走り去った。私は中央回廊の手すりにとりつき、階下の闘いへ身を投じて行くミホークをただ見ている他になかった。  回廊の吹き抜けの底にあたる玄関ホールでは先に到着した伯爵が身の丈よりも長い刀を抜き払ったところであった。刀は身が漆黒で柄と鍔に見事な宝石や彫刻のある美しい姿をしていて、ジュラキュール家の宝刀であることが遠目にもはっきりと知れる威容であった。  表の状況を伯爵が問うと、白兵およそ百、すべて前庭内と返る声がして城勢がどよめいた。大扉一枚を隔てた向こうに大軍がおしよせていると見えたのだ。砲では近すぎるとして伯爵は長銃隊を銃眼につかせ、砲銃隊長の号令一下、ホールに銃声がとどろいた。  だが銃弾に斃れた敵兵は皆無であった。兵は戦慄し狂ったように撃ちまくったが、いくら撃っても弾が素通りしたのである。すべては敵陣にいた悪魔の実の能力者によるものであったがこの時の城の勢には知るよしもなかった。一人を除いては。  その時、あの中性の使用人がまろび出て伯爵の元へひれ伏した。主人の前でフードを払った姿は果たして女であったが、一見して視力のないことが知れた。伯爵は蹴り飛ばさんばかりの怒号で下がるよう命じたが、彼女は額を床につけ伯爵のブーツのありかを探って懇願した。  「城主様、我等たばかられております。百名もの敵勢の気迫、この身にはまるで感じられませぬ」  ああ今にして思えばこの女の言葉が闘いのすべてを予兆していた。しかしその声は新たなどよめきにかき消され、ついに誰の耳にも止まることはなかったのだ。彼女の背後で、光が千条もの糸となって大扉の両の合わせ目より射しこんだかと思うと、左右に屈曲してなんと扉をこじ開け始めたのである。わずかに隙間が生じれば新たな光の糸がそこを埋め、また左右へと押し広ぐ力になり、そうして城勢の眼前であの大扉が開かれていった。  誰もが、この世のものとも思えぬ光景に言葉もなかったが、開かれた扉の向こうに現れた敵勢はそれ以上の悪夢であった。  ひしめいていたのは背中に蝙蝠の羽を生やした鎧武者、それも血に飢えた狼の頭を持っていたり、あるいは人頭馬身のケンタウロスであったり、それらが手に手に輝く刃をかざして無気味に笑っていたのである。 これには伯爵もが一歩あとずさった。  嵐の風が吹きこみ、妖魔の軍勢が音もなく、そう正しく音もなく城扉の内へと侵入した。金色の刃が、一閃のもとに城勢の一人を斬り伏せたとき、この恐ろしい闘いは幕を開けたのである。光る剣が、恐慌をきたし態勢を崩した城勢を容易く屠ってゆく様は、まさに地獄図絵であった。伯爵は獅子奮迅の勢いで宝刀を操り妖魔たちの刀を薙ぎ払い、かつ部下たちに退却を命じた。闘えぬ部下をかばいつつ、同時に敵を城の奥部へと誘いこんでもいたことが私の俯瞰の眺望から見て取れた。  「目覚めるぞ!」と、奥の大階段を刀で示して伯爵が叫ぶと城勢がいっせいにその先へ駆け上がった。追う妖魔たちを払って伯爵が最後に階段へ上がる。するとホールの床の美麗なモザイクタイルが一気に崩れ、現れた大穴が魔物たちを呑みこんだ。  城の勢は階段の上から歓声を上げた。しかしそれは直後にふたたびの悲鳴に変わり果てた。 落とし穴の闇の中から、妖魔たちが浮き上がって来たのである。いずれも無傷のまま、青い鬼火に包まれて苦もなく大階段へと舞い下りるのを見て、誰もが悪夢の終わらなかったことを覚悟した。  そのとき、ホールの穹窿天井に響いた声にすべての者の耳が惹きこまれた。  怖れるな!すべて幻だ!  それはまさしくミホークの声であり、私は手すりをつかんで瞳を凝らした。この時の私の目はミホークの力が宿ったかのようにはっきりと、遠くにある彼の顔を見て取った。  大階段の先頭に踊り出た少年が白銀の剣で妖魔を払うと、それはあたかも水鏡に映った影のように揺らめき、ぐしゃぐしゃとなった。だがその中に一条、揺らがぬ光の綱のようなものが見え、それは剣に当てられるとキィンと音を立てて弾き返された。  「妖魔は幻だ!害をなすはこの光の綱だけだ」ミホークが叫んだ。  私は圧倒された。ミホークの顔には怖れの気色がまったくなかった。真紅の瞳は鬼火も妖魔も、邪悪なものすべてを打ち消す力に煌き、そしてそのとおりにすべての魔物が彼の刃にかかりふつふつと消えていくのだ。  幻? 私の脳裏にあの盲目の女の言葉が明滅した。百にも及ぶ軍勢の気迫など感じられないと言ったあの言葉こそが正しかったのである。  その時、  「オマエやるなあッ」  いやに明るい声とともに、骸骨の馬の背に乗った一人の少年が姿を現した。ミホークより年上の風だが妙に艶かしい容貌であった。「ボクのからくり、なんでわかったのさ?」  妖魔たちは、今や害を及ぼせないと分かったミホークの左右をすり抜け、逃げ惑う軍勢の方を追いかけていく。ミホークは叫んだ。「光の綱だけを見きわめろ!」  「そのとおりッ」だが少年のその声にかぶさるようにまた一つ悲鳴が上がる。「でもそれができたのはオマエがはじめてだよ」  ミホークが睨みつけると少年はびくりと身を震わせ、その拍子に骸骨の馬の幻が消えた。少年の実体が床の上に立ち現れたが、ミホークの目ははじめの馬上ではなく、正確に少年のこの位置を見切っていた。  「オマエの顔、コワイなあ。特にその目は――」  ミホークが斬りかかり、少年が危くよける。すると入れ替わりに灰色の翼竜が現れた。ミホークの剣とその爪が空中でぶつかり火花が散る。実体がいるのだ。  着地した翼竜は私の目にも一人の人間の姿に戻って見えた。ホールに開いた大穴を光のロープで飛び越えてきた、長い黒髪の長身の男。体が大きくミホークの倍はあるように見えて、翼竜の幻よりもむしろ威圧感を放つ猛者であった。ミホークはこれにも怖れることなく剣を構えてみせる。しかし、相手の幅広の剣はどう見てもその三倍は幅と重量があった。男が丸太のような腕に渾身の力を込めて剣を振ると、飛び交わしたミホークの足もとの石が砕け散り、次の一太刀は階段の手すりを粉々にした。  ミホークは階段の上方に位置を取りつつ退却し、後ろ足で階段を上がる心もとなさからしたように見せかけて石柱のレリーフを手で払った。同時に横合いから巨大な刃を持つ振り子が放たれ、追っ手の男のかわした身ギリギリのところを掠める。男は躊躇せずに走り抜けて振り子の次の襲撃をかわした。その角度から活路が前方にしかないことを見切ったのは見事だった。  ミホークは、戦意をなくした城勢を抜け道のくぐり戸へ押しこめて入口を塞ぎ、さらに階段を上がった。  が、そこでとうとう追いつかれた。下からの剣をなぎ払ったものの、それを囮に繰り出された光のローブに絡められ、その体が階段に叩きつけられる。黒髪の男がその指先から出ている光をぐいとたぐり、ミホークを睨みおろした。手も足もがんじがらめで身動きの取れないまま、ミホークも男の両目と真っ向からにらみ合った。  「鷹のように鋭い目だな」男が言った。そしてミホークの髪を掴んで引き寄せさらに覗きこむ。「しかしまだ幼鳥だ」  「アスール!」らせんの上、私のいる階のすぐ下でくだんの少年の声がした。黒髪の男は顔をあげた。  「仕事、しろよなあ!」少年の能力は幻像を見せるだけで物体にはたらく力を持たないのだった。扉をこじ開けたり、兵を倒したりといった実効的な力は黒髪のこの男のロープにしかなく、それで少年は男を呼んだのだった。だが男の方は少年ほどには戦闘に興味をもっていなかった。  「俺は狩りの獲物を楽しみたい。手柄はおまえにやるさ、ヴェール」  ヴェールと呼ばれた少年は悪態をついて階段を下りはじめ、男の脇を過ぎていった。どこへ行くのかと私は訝った。  が、少年が消えたことを確かめた男が視線を手中のミホークに戻し、そして何とおぞましいことか、ミホークの頬をその舌でざらりと舐め上げたのを見て、理性が吹き飛んだ。男の表情が卑しい笑みさえ浮かべることなく、かえって冷徹なままであったことがいっそう忌まわしく、そして危険に思われた。  私は、途中に転がっていた剣一振りを引っつかんでらせんを駆け下りた。剣術の心得などなかったが、そんなことさえこの時はまるで考えていなかった。  ――だが私の憤怒よりも先に男を裁いたものは、あの漆黒の宝刀であった。  伯爵が、らせんの二周りほど下のその場所へと、それを投げ落としたのだ。刀はミホークの足と足の間に落ちて男の脚を貫き、石段に刺さり止まった。何という無謀、しかし私は階段にうずくまる伯爵を発見した時、彼がそうせざるを得なかった理由を知った。伯爵は満身創痍で、その腕には血に濡れた奥方を抱えていたのだ。私はすぐに奥方を助け起こしたが息は既に亡く、伯爵の目も私の様子を見て初めてそれに気付いた様であったのがあまりにも痛ましかった。  手すりから身を乗り出して、伯爵が叫んだ。「ミホーク!もはやぬしのみぞ!」  それが最期の言葉となった。私の方へ向けられたその背に致命傷があったのだ。それほどの重傷でありながら奥方を諦めず、さらに最後の力でその伝家の宝刀を、次なる主のもとへ送り届けて彼はこときれたのだ。  そうして、私は奇跡を見た。  光の呪縛から逃れたミホークが男の下から這い出し、翻って黒刀に手をかけたその瞬間、刀がまるで生き物のぞくりと震えるかのように色を深くしたのだ。元来から漆黒であった刀身はより闇を濃くし、柄と鍔に打ち篭められた宝石は生命を宿した八つの瞳のように各々の色を深め、偉丈夫の身の丈よりも長いその刀は、しかし小柄な少年の小さな手をその主と見定めてやすやすと石段から引き抜かれたのである。まるで前世の恋人に出会った乙女のように、刀が喜悦に震えているのが私の目にもはっきりと見て取れた。あの刀はジュラキュール家の代代のためでなく、正しくミホークのためにある刀だったのだ。  石段からの抜け際に刀は切っ先をついと流し、身をかわした男を斜めに斬り抜け、ミホークの手のもと最初の血の洗礼を受けた。  何という強さ。それからのミホークと黒刀の前にはあの脆弱な幻はおろか、百戦錬磨の海賊の白兵どもまでが次々と斬り払われていった。それは、長い柄と片刃の峰の部分を支点に使い、あとは刀自身の重みに任せた流れるような太刀さばきであった。  ミホークはあっという間に私たちのところまで上ってきた。そして斃れた伯爵夫妻に一刹那の黙祷を捧げた。それは修羅場の中の一筋の救いであった。  その時、幻や鬼火がいっせいに消えた。刃のぶつかる音は続いていたが、幻は見えなくなった。今のうちにといってミホークは私を通路の一つへ促し、自分はステンドグラスの丸窓を開け放ち身を乗り出した。外の嵐に打ちつけられながら闇をじっと見据える。それは獲物を追う鷹の目であった。  「あの少年が」とミホーク。「村へ向かっています。幻が消えたのはそのせいです。この城を仲間に任せて村を襲いに行ったんです」  そう言って刀を担ぎ上げたのを見て私はとっさに彼を引きとめた。先刻一度は手を離してしまったわけだが、それでも譲れなかった。私の手は既に怒りに震えていて、ミホークは少なからず驚いたようだった。  「君はまだ子供だ。命を張ってまで戦う理由などどこにもない。ましてや君が救おうとしている連中は――」  激情のまま、私はミホークの頭を掴んだ。てっきりかわされると思っていたが私の掌に納まったので、そのまま前髪をすくい上げる。普段、後ろへ撫でつけてあるそれが前に落とされ、生え際近くの血の痕を隠していたことなど、医者である私の目には見え透いていた。しかもその傷は石か棍棒のようなものに打ちつけられた裂傷であった。  戦闘の間にぶつけましたとミホークは言ったが、村へ急を知らせて戻ってきた時にはもうそうなっていたことも私は知っていた。ミホークは既に義務を果たした、そしてこれがその彼に対する村人の答えだったのだ。それでももう一度行くというのか?  ピリッ、と掌に感じるものがあって私は手を離した。同時にミホークが黒刀を振り仰ぎ、背後に迫り来ていた敵の刃を叩き折ってそのまま腕までを斬り抜く。敵は崩れた石の手すりもろとも吹き抜けを落ちていった。  その時のミホークの顔は、今でもこの目に焼き付いている。  彼は、笑っていたのだ。  それは――吸血鬼の笑みであった。  領民を救うために闘う高潔な救世主などでなく、これと見定めた歯ごたえある敵を手にかけ、その生き血をすすりたくてうずうずしている悪鬼の、らんらんと輝く赤の目。あれ以上引き止めていたら私を殺してでも行ったであろう。今にして思えば彼はこの時、生まれて初めて己が全力を挿して戦える仇敵を見つけたのだ。私に止めることなどできようはずもなかった。  ならば、と私もまた悪鬼の目に魅入られたように叫んでいた。  私を連れて行け、と。おまえのすべてを見届けてやる、誰に遠慮することもない、おまえの力のたけをすべて私に見せてみろ、と。  この言葉が正しかったのかどうか、それはいまだに分からない。  ともあれミホークは黒刀を肩に担ぎ、私の手をひっぱり起こしてらせんを駆け下りた。神が、あるいは悪魔が力を貸したのだろう、私の足はミホークの疾走について行くことができた。玄関ホールは床を落としていたので私たちは柱廊から表の庭園へと抜け出し、石壁のからくり出口を通って激しい風雨の中を村へ、ミホークの仇敵のもとへと走った。  やがて視界に入った村は、鬼火と妖魔の幻に蹂躙され、城以上の惨状をきたしていた。本物の火の手が至るところに上がり、強烈な旋風と熱気が逆巻いている。私たちは迷わずその渦中へ飛びこんだ。  ミホークの小さく柔らかな手が私から離れ、代わりに黒刀の柄をしっかと掴む。赤い瞳が大きく見開かれ、その喉が獣のように咆哮する。私の足はもはや彼に追いつかなかった。  小さな噴水のある広場にあの私掠船の少年が見えた。私は叫んだ。  「ミホーク!」  私の声を背に、黒刀の幅広の刃が、鷹の目のミホークの翼となって空を切る。少年は完全に虚を突かれたが、瞬間にマグネシウムを発火させたような強烈な閃光が走った。火災の只中といえ、嵐の深夜で視界が暗かったところへいきなり光を食らい、私の目はしばらくまったく見えなくなってしまった。やっとものの輪郭が把握できるようになったときには、黒刀を逃れた少年と、狂犬のような目でねめつけるミホークが互いに距離を取っているところだった。少年は肩に傷を負っていたが不敵な笑み。ミホークはしきりに目をしばたたかせ、肩と背中を激しく上下させていた。明らかなオーバーテンションだった。  少年が嘲るように笑って手をかざした。一方はミホークへ。一方は自分の顔の前へ。そして二閃目が光り、広場が白昼の明るさになった。  だがミホークも同じ手は食らわず、一瞬早く目を閉じた。しかしそれを少年は待っていたのだろう、ここぞとばかりミホークへ剣を振り下ろした。  ギィン!と音を立てて少年の剣が、黒刀に斬られた。  目をきつく閉じたままであるにもかかわらず、ミホークは刀身をぐるりと反転させ、少年へと襲いかかる。少年は目を丸くして、もんどりうってのがれた。  さらに一撃。少年が四つん這いでかわす。だが黒刀はそれ自身に目玉でも付いているかのように少年の逃げる先、逃げる先へと刃を繰り出していた。それはまさにあの黒い革帯で視界を塞いでいたミホークならばこその、視界に頼らず気配を察知する術なのだと私は気付いた。少年に猫のような敏捷さがなければ到底三閃目はかわせなかったに違いない。  だが少年も実戦に長けていた。なんと捨て身でミホークの懐に飛びこむと、閉じたまぶたの正面へ手のひらをかざし、緑色の光を放って飛びのいた。まるで光に圧力があったかのようにミホークが頭から弾かれて倒れる。その衝撃で見開かれた瞳に続けざまに真紅の光球が打ちつけられた。その中に隠されていたのは三本の短剣で、一本はミホークの頬をかすめ、一本は黒刀に弾かれ、しかし三本目は起きあがりかけていたミホークの左腿に刺さった。ミホークは地面に倒れた。  「やったやった!」と少年が笑った。「オマエ光を食らってもすぐに目が戻るから逆に引っかかったのさ。見えすぎるオマエはやっぱりボクのキラキラの実の能力にはかなわないなあ!」  キラキラの実。確か光を自在に操る能力を授けるというものだ。単純に光るだけでなく、修練すれば幻を自在に出現させたり、城でアスールが見せたような実効的な力を持つようになるという。この少年が見せた力はまさにこのキラキラの実の能力者が持つ魔力の一つだった。  「うぅぎぃゃゃああ!」  ミホークが言葉でない叫びを上げた。それは脚に刺さった短剣を引き抜いた痛みにではなく、相手の術中に嵌った悔しさからの、かんしゃくであった。黒刀が踊りあがり、少年へと闇雲に投げつけられた。少年はそれをたやすくよけ「無理ムリ!」とあざける。  だがそれはおとりであった。ざくり、と音を立てて黒刀が地面に刺さった瞬間、ミホークの目は狂気の衣を捨て、氷のような温度を取り戻すと少年が自らよけた方向へ体当たりをかけた。  二つの体は折り重なって噴水の池の中へと転がり落ちた。  すぐに立ち上がったのはミホークの方だった。水は彼の膝上ほどにしかない。しかしその中から少年は起き上がれなかった。悪魔の実の能力者は水に力を奪われ沈むのだ。  ミホークは少年の上へ馬乗りになり、両手を水の中へ突っ込んだ。少年を溺れさせるつもりなのだ。耳が痛くなるような子供の悲鳴が響いたが、それは水中の少年のものではなく、ミホークの醒めやらぬ狂気の声であった。  それに気付いた私は駆け寄って叫んだ。殺してはいけない、と。これほどの死闘であったにもかかわらず、まだ私は憎しみに駆られて自らの手で命を奪うことはあってはならないと思っていたのだ。ミホークを獣から人へ戻さねばならないと。  少年は水の中で目を見開いてはいたが、その体にはまったく力が入っていなかった。すぐ鼻先にある水面まで身を起こすことさえかなわず、ミホークの顔を見据えたままのその目にありありと恐怖の色を浮かべている。その表情を見て私も慄然とした。  私は我が気を奮い起こしてミホークと、それから少年の体を一抱えにして水から揚げ、そしてすぐに引きはがした。少年は大量の水を吐き、吐き終わってようやく空気を一つ吸った途端にぱたりと昏倒した。恐怖心によって意識が吹き飛んだのだ。人間の精神における一種の防衛機構がはたらいたのである。真っ青な顔色からしてもいわゆる脳貧血であることは分かったので、そのまま地面へと横たえさせた。  ミホークは歯を剥き出しにした口の端からよだれを垂らし、昏倒した少年をまだ睨みつけたまま、ぜいぜいと肩で息をしていた。ちょうどその背後に、彼の投げた黒刀が地面に刺さっていて、十字架のようになっていた。  雨は小降りになっていたが、ようやくのことで明けた空に日の光はもたらされなかった。村人たちが広場に集まり始めた。戦いは終わり、火は消え白煙が立ち上るだけとなっていたが、皆、放心していた。  私はミホークをつぶさに見た。頭からずぶぬれて、マントは切り裂かれ、その下の白い寝巻きとともに血と泥にまみれ、裾からのぞく脚には血が凝っていた。  そして両の手のひらからも血がにじんでいた。あの黒刀を夜通し振り回したのだから無理もない。よく軍人や武術家といった人々が血のにじむほどの特訓を重ね、といったことを口にするが、ミホークの血はそんな過酷な特訓さえもあざ笑うのだろう。それは彼自身の理性を、そして感情さえをも押し潰して狂気へと狩りたてる、呪われた運命の血なのかも知れぬ。  勝ったのは確かにミホークのはずであった。しかし、私にはその姿がひどく惨めなものに見えた。それをせめて村人たちの目にだけは晒したくなくて、私は自分のマントの前を開き、彼を頭からくるんで胸に押しこめた。中でミホークは私の腕に噛みついた。血の中の狼がまだ猛り狂っていてどうにもならなかったのだろう。だがその歯も爪も、私にひどい痛みを及ぼすものではなかった。彼はもう疲れ果てていたのだ。  私たちの姿が黒刀の漆黒の刃に映るのを、私は恨みがましく見るほかなかった。  その後に起きた出来事を、力尽きたミホークが聞かずにすんだのはせめてもの幸いと呼ぶべきだろうか。  こんこんと眠るミホークを抱いて、私は噴水のへりに腰を落とした。私自身も疲れ果てていた。  「城は落ちた」と誰かが言った。「伯爵と夫人は亡くなった」  広場から振りあおぐと、青紫色にけぶるジュラキュール城が見えた。嵐が止んでようやく接岸できた海軍がおっとり刀で駆けつけて、ことの次第を見極めたのだろう。悪魔の実の少年も村人たちの手で引き渡されたが、目覚めて兄のアスールの消息を聞くなり、わあわあと泣いたのが印象に残っている。  「残るは――その少年だけだ」村人の目がミホークに注がれた。  殺せ!と誰かが叫んだ。今のうちならやれる、と。  私の頭は疲れも忘れた。「敵」はまだすべて消えたわけではなかったと、新たな怒りがふつふつと沸いて胸の中のミホークを隠す。  村を救ったのは誰だ?ミホークが闘わなかったら私たちは全員殺されていたはずだと、私は声を限りに叫びたかったが、体中が震えて力が入らなかった。  ミホークも奴らの仲間ではないのか?と一人が言った。追随する者が出た。なぜミホークは敵の来襲を知っていたのか、彼の手引きがあったからこそ賊どもはあの嵐の中、城への侵入を果たし、村への奇襲を成し得たのではないか。すべては伯爵を亡き者にし、村を支配するための計略で、ゆえに彼は手下であるところの能力者の少年を殺しはしなかったのだ。広場に溢れる声は、城と村とを破壊されたやりきれなさをミホークへの憎しみへ転化しており、他所者の私の説得の及ぶものではもはやなくなっていた。このままでは私刑になりかねないと判断した私は、ミホークを連れて村を出る決心をした。  せめて一日の休息をという陳情もかなわず、ならば乾いた服をという願いも私のための一揃えの他はついに与えられず、私たちは水樽一つとバスケット一杯のパンのみという、すなわち流刑の形で追われることとなった。海軍のカスティーリオ中尉は終始無言であったが、あの黒刀を携えることに異議を挟まなかったのが、彼なりの答えであったに違いない。  船は、伯爵家所有の大型船二隻がいずれも破壊されており、残っていたのは賊どもの幽霊船旗艦のみであった。私たちにあてがわれたのはこの呪われた船であった。しかし、そもそも操帆技術を持たぬ私には、最寄りのバラメーダ港へ着くこともおぼつかないというと、ここでも中尉がひとこと「曳航する」と言ってくれてことなきを得た。  ややあってから出発の準備が整い、いよいよ乗船するとなった時、私はミホークをそっと起こした。村人が恐慌をきたすかとも思ったが、私は彼に故郷の見納めをしかとさせてやりたかった。 ミホークは目覚め、私の言葉を静かに聞き入れた。そして自らの足で故郷の土を離れ、船に乗りこんだ。  幽霊船旗艦の後部甲板に立ち、私たちは噂どおりに純白であったその帆を広げることなく、ただ海軍の曳航のもと遠ざかる景色を見た。ミホークの目ならば、そのすべてを見ることができたに違いない。破壊の痕の痛ましいジュラキュール城も、燃えて崩れた村の家々も、変わらず残った黒い森とカッソールラの山脈も、海際の断崖も――。  そして、ミホークは私に尋ねた。「教授、泣いていらっしゃるのですか」  ああ、と私は首肯した。涙が溢れて止まらなかった。 「君がなぜ、この生まれ故郷を去らねばならないのだろう」 「私のために、泣いてくださるのですか?」  ああ、と私はこれにも首肯した。「ミホーク」そのあと私はつとめて笑顔をつくって見せた。  「君はこれからずっと私と一緒だ。君ほど頭の良い子は都にだってそうはいないぞ。ぜひ私の養子となって私とともに研究の道を歩んでくれ」  ミホークは少し悲しそうに頷いた。今にして思えば彼がそんな風になど生きられるわけがないのに、ミホークは私に気を遣ってあえて否定しなかったのだ。  「都までは遠いのですか?」ミホークが尋ねた。  「ああ。だいぶ遠いな」と私が答えるとミホークは、そうですかと言って水面を見やった。鷹の目が、輝く海に何かを見ていた。  そうして、破れたマントを脱ぎ去ると、薄い寝間着一枚でふわりと飛んで、海へと身を躍らせた。  私と、海軍の船のデッキから様子を見ていたカスティーリオ中尉は、あっと身を乗り出した。私が飛び込もうとすると中尉が待てと言って白い上着を脱ぎ、だがそこで浮き上がってきたミホークに気付いた。中尉は幽霊船旗艦の甲板へ縄ばしごを投げてよこし、私はそれを海へ下ろした。  ミホークは口に岩のような貝をくわえていた。船げたのところでで腕を縄ばしごにひっかけ、私の首のペンダントを求めた。伯爵が魔よけといってよこしたあのペンダントがまだ私の首にあったことに、私はこの時はじめて気付いた。  鞘を取って、ミホークはその刀身で器用に貝をこじ開けた。そして中身をぱくりと食うと、口から真珠を吐き出した。  ミホークは言った。「港に着いたらこれで教授と私の旅支度を整えましょう」 そうだ、私はこのぼろぼろの身一つの格好で港についてからいったいどうするつもりだったのだ、ミホークの方がよほど世を渡る才に長けているではないか。私は笑うしかなかった。真珠は大粒の黒真珠で、旅支度どころか次の船の切符も特等が取れそうな逸品であった。  「小僧」カスティーリオ中尉が言った。「あと二つ三つ見えるか?」  「もちろん」ミホークは答えた。  「ならば行って取って来い」そういって踵を返し、よく通る声で一言、「停船」とだけ合図した。中尉とはそれきりである。  「そうしなさい」私はミホークに言った。「ジュラキュール伯爵ともあろう者が資産の一つもないようでは先が思いやられる。十でも二十でも、君が見ていいと思うものを取ってくるといい」  「欲張りですね、教授は」ミホークは濡れた前髪をすくい上げて笑った。赤い目がきゃらきゃらと輝いていて、真珠よりも眩しかった。  その身が海へとふたたび翻ったとき、私は思わず目をすがめた。  この土地ではじめて、太陽の光が射すのを見たからであった。  その光景を、私は生涯忘れることがないであろう。                                         終 『鷹の目の少年』 作・辰巳 ホームページ「ジュラキュール城」 http://www.baywell.ne.jp/users/rokkoh/chd/entrance.htm