V・ヘルシング教授の日記   如月第三日目  明け方より陰鬱な小雨が降り止まぬ。気温はますます下がり、暖炉にあかあかと燃える火を昼も絶やすことが出来ぬ。  日記は前日二日の宵より回想するものである。  夜餐は伯爵と共にした。雷鳥のローストという野趣溢れる皿を馳走になった後、伯爵から十字架を賜った。中に刀身を仕込んだもので一目見て護身用と知れるものだったが、城下の名匠の手になる象嵌もカーヴィングも施されていない白木の造りなのがかえってその用途を際立たせた。ともあれあえては逆らわぬこととして私は今もこれを首より提げている。  食後、夜も更けてから居室にミホークを尋ねた。昼間言われたとおり厚手のマントを持参していくと、ミホークははじめて居室を抜け出して石の回廊を先に立ち案内した。家人や使用人たちと鉢合わせぬよう気を遣っているのが知れたが、やがて一つのくぐり戸を入ってさらに細い通路へ潜るとニコリと笑ってここから先は秘密の抜け道なので安心ですと言った。戸を閉じると中は私の目には真っ暗になったがミホークにはまだ見えるのだろう、入口の棚からろうそくと燭台を取り、私のためにそれを整えてくれた。炎が、ミホークの瞳に映って赤い色をますます妖しく輝かすので、正直言って私は少しぞくりとさせられるものがあったが、それを口にしても互いに感情がわだかまらないまでに私たちの中が深まっていたのは嬉しいことであった。むしろそれを忌憚なく口にすることでこそ、私たちの友情は深まるのかも知れぬ。  私たちは通路を上り、やがて一つの塔の外楼へと出た。四方をぐるりと渡り歩くことの出来るそれは果たして灯台のてっぺんであり、さらには小さな階段が塔の外周に沿ってくるりと蛇のように巻きついているので下の空中庭園へも下りられるようになっていた。私は寡聞にして知らなかったのだが、通常の灯台というものは巨大なカンテラを回すことで海ヘ灯りを放っているのに対し、この城ではカンテラのぐるりにミホークの背丈ほどもある大きなレンズを配し、それを周回させる独特のものであるという。これほどの大きさのガラスを生産、研磨し得る技術こそがこの城と村の財産なのですとミホークは言った。カーヴィングも象嵌も、同じ職人集団による技術の延長であり、またそうした研磨や彫刻を可能にする刃と水はこの城の命でもあると彼は語った。  海風を受ける風車の力で遠雷のような音をたてて巡る巨大なレンズが、カンテラの光を収束して私たちの体を突き抜けんばかりに力強い灯を造り、海へと照射してゆく。それほどに強い灯りにも変わらず目を見開いているミホークの眼差しは、まさに村を支える城主としての威厳を既に垣間見せていた。  海の嵐が崖から這い上がり、ミホークと私のマントを大きく膨らませた。そのまま吹き飛ばされそうな気がして慌てて裾を引き寄せ、石壁の手すりにしがみつく。実際、灯台の高さは城の階層に断崖の分も合わさって海面までは目も眩むほどであった。  時々ここへ来て景色を見るのです、とミホークは言った。私たちは壁に沿って歩いた。正面は無論、水平線のありかも知れぬ暗黒の海と、星一つない空。海が灯台の灯を呑みこんでごうごうと吠えているのが分かる程度。時計回りに行って今度は城下の村。だがこれははるか眼下の夜の景色とはいえ、いやにうら寂しく思われた。しかし裏手はさらに荒寥とした暗い森と、その森を麓に抱いて立ちそびえる深陰たる山脈の景色で、私は気が塞ぐのを感じずにはいられなかった。もとより寂しい景色だが、これがミホークにとって自由に見ることのできる唯一の世界であるということがさらに私の気を重くした。  しかし、それこそ私の狭量な思いこみに過ぎなかった。ミホークは今はろうそくの赤い火も消し、子供らしい輝きを宿した目で、私の目には決して捕らえられぬ世界を次々と話してくれた。雲間に紛れて茫とも見えぬ月を指し示し、今夜は叔父君の漆黒の船が沖を目指していると言った。もちろん私には指差されても見えようはずもない。そして裏手へ回ると森の木々に宿る梟や、鷹の営巣する大樅の木のことを語り、カッソールラの峰々から流れる清水が速いから山では雨が降っていて、明け方にはその雨が里ヘ降りてくるだろうと言った(事実、雨はこうして降っている)。誰に言っても信じてもらえなかったと、ミホークは私を見て言った。  狼が、遠く長く遠吠えた。するとミホークがそれに応えてウォォーッと獣の声を上げた。始めはあっけにとられたがミホークはちらりと笑ってみせてからまたウォォーッと吠えた。私の耳にも明らかな別の狼の声が応えた。森と村とこの城の間の空気を、狼とミホークの遠吠えが行き交うのはしかしなぜか心和むものであった。獣から見ればミホークはただの人間の子供だからだろう。  不意に、私もその仲間に加わりたくなった。ミホークの友としてならあるいは狼たちも私を受け入れてくれるやも知れぬ。これは都では決して味わえない至福に違いないと思ったら矢も盾もたまらなくなり、私はミホークに聞いてみた。彼はかなり驚いたようだったが「どうぞ」と言うのでやってみた。自分でも呆れるほど下手な声に、狼からの返事はもちろん来るはずもなく、ミホークにはけらけらと笑われた。「もっと遠くへ飛ばすように」と言ってミホークが吠えると、そのボーイソプラノは山脈に反響するほどに長く、また遠くまで響いた。複数の狼たちが唱和するのが聞こえる。私も何度かやっていくうちにコツが掴めて、やっとのことで狼からの返事をもらえたときは嬉しかった。俗に「狼使い」といえば悪魔の眷属のことだが、実際の狼は邪悪なものではない。そんな当たり前のことを忘れ、ただ怖れているばかりであったのは私も同じだった。  ミホークはけたけたと実に愉快そうに笑っていた。だがふと真顔になって私を見た。  「教授。首は、痛みますか」  例の吸血鬼騒動のことを気にしていたのだ。遠吠えをしていて思い出したのだろう。それまでの元気はどこへやら、しおしおとうなだれる姿に私はあえてスカーフを取って傷を見せてやった。「あの日はそれは痛かったが、今は平気だ」と言うと、申し訳ありませんと素直に頭を下げた。きちんと謝ってくれたことが何より嬉しいと私は応えた。  なぜあんなことを?と私は彼自身の考えを聞いてみた。  ミホークは答えた。「教授が良い方だったからです。目隠しをした私を見たとき、掛け値なしに私を哀れんでくださいました。ですから私と関わってはいけないと思いました」 なぜいけない?とさらに聞くと、  「教授も吸血鬼になったと言われるからです。いずれ皆に忌嫌われます」と言う。  私は膝をついて目線を合わせ、やはり私たちは良き友人なのだと言った。私は、自身への中傷に対する不満よりも、むしろ我が友ミホークへの中傷にこそ怒りを覚える、しかし同時にミホークもまた、自分をおいてまず私を気遣ってくれている、その真心こそが友としての真価なのだから、後に残るのはむしろ神への感謝であるのだと、そう言ったのだ。  ミホークは懺悔と友情の証にと私の首の傷に今度はそっとくちづけ、私も抱擁で返礼した。彼の唇は海風を受けて冷たかったが、薔薇の蕾よりもふくよかで柔らかかった。  そのあと、私は鷹がどこにいるか聞いてみた。ミホークは少し目を凝らしてから今日は秋楡の木の陰にいますと応えた。一羽かと問うとそうだと言う。  私は尋ねた。鷹は一つの森に一羽しかいない。その理由がわかるか、と。  「それ以上いると森の小さな動物たちすべてを食べ尽くしてしまうからです」とミホークは答えた。  「そう。君もまた、鷹なのだよ」この時の私の言葉は神が我が口に宿した力によって紡がれたものに違いない。「鷹は一つの森に一羽きりだが、己の性をよく知り、また森のすべてを知るからこそ、それが神の定めと知っている。鷹はそれはやはり寂しくはあるだろう。だが嘆きはしないのだ」  「お言葉ですが鷹は寂しくはないと思います」とミホーク。「なぜなら隣の森に仲間がいることを知っているからです。春になれば別の森を訪れ、つがいとなって子を産みます」  君も探しにいけばいい、と私は言った。私自身もまた、生まれ故郷の町で十四、五の時にはもう大学を卒業してしまい、もはや私と議論を戦わせられる相手のいないことを知ってさらに大きな町の大学院へ入るため旅立ったことを話して聞かせた。智性という点においては私もまた一つの森の一羽の鷹だったのだ。ああ私は今、なぜ私がこの少年に魅せられていたか、それを知っている。  ジュラキュール城の下にかしずく眼下の村は小さく、また素朴に過ぎて鷹には似合わない。  「鷹の目を持つのなら、世界のすべてをその目で見るといい」  私は伯爵を説得するための絶妙の方法を思いついた。ミホークを私の元へ遊学させるのである。ミホークには人並み外れた才があるからすぐにでも大学へ入れるだろう。伯爵家の長子として中央の学府で学を修めさせるべきだと言えば対外的にはこれ以上ない名分だから、体のいい厄介払いと思って伯爵は承諾するに違いない。ミホークと伯爵たちの間に程よい距離を置くことはこの問題を解決する最も良い方法であるはずだ。また、彼が長じて立派な青年になる頃には伯爵も引退を考える年になろう。案外すんなりとことが片付くかも知れぬ。我ながらの妙案だと私は意気昂揚だった。  だがそんな気分は直後の事件によってかき消されてしまった。  ミホークが、あっと小さく言ったかと思うと、マントの裾をぱっと広げて石の手すりを飛び越えたのだ。まさか身投げかと私は本当に肝を潰したが、ミホークの小さな体は下に延びているらせん階段の上に舞い降り、そのまま猛然と駆け出していた。私はもちろん飛び越えこそしなかったが慌てて後を追った。しかしミホークは私が例えたとおり、まさに一羽の鷹となって通廊をすり抜け、途中どこから取ったのか、長剣の一本を引っつかむなり柵をひらりと越えた。さらにその先の東屋の柱に触れたかと思うと、前方の石壁の巨大な石が数個、水のからくりで半回転して小さな抜け穴を出現させた。彼は苦もなくそれをくぐり、そこからは一本道をたどって城下の村へ向かっていく。私も飛んだり身をかがめたりしてなんとか追ったものの、それは机に向かうばかりが能の身にはこたえた。それでも追い続けたのは、一瞬だけ見えたミホークの目が蝋燭の炎よりも赤く、本当に狼の目のようにぎらついていたからであった。これはよくないと直感したのである。  村へ入ってからも私は迷うことはなかった。ミホークの甲高い叫び声が、夜陰に鷹の鳴き声のように響き渡ったからである。それは一軒の粗末な家の中からで、私が踏みこんだとき、ミホークはまさに長剣を振りかざし、一家の主人に襲いかからんとしているところであった。私は上がった息も忘れて前へ踊り出し、そして剣が一瞬止まったのを見てそのままミホークを抱え込んだ。  主人はその手に木の棒を握っていたが、それには血がついていた。はっとして見ると部屋の隅に怯えてうずくまる母子がいて、血を流していたのは彼らであった。主人は明らかにかなりの酒を過ごしており、机の上のものが床に四散していた。私はミホークがあの灯台から見たものにようやく想像が及んだ。ミホークの名を呼びながらその背中をさすり、長剣を預かる。酔った主人は修羅場に飛びこんできた者の名を聞くなり酔いが醒めたか、とたんにぶるぶると震え出し、胸や額の前でしきりに十字を切ると逃げるように家の外へ走り出して行った。外には村人が集まっていて騒然となった。  私は母子の怪我を診て、とりあえずの大事はないことを確認したが、家は貧しく薬などないというので、その場では子供の傷にハンカチーフを巻いてやることしかできなかった。  私たちがその家を辞すと、戸口の人の波が引いた。よりによって城主の不在時に問題が起きてしまったが、悪いことは何一つしてはいないのだという矜持のみをたよりに毅然と歩く他なかった。  雨が降り始めた中を私たちは城へ戻り、びっくりする門番をいなして大扉を通って居室へと引き揚げた。  二人きりになって初めてミホークは涙をこぼした。  「見たくなかった」  雨に濡れた重いマントを椅子へ投げ、私のことも見る気がないとばかりにその目に黒い革帯をきつく巻きつけたミホークは、そのままベッドへ身を落とし、やがて雨が降り続けるまま暗い夜明けを迎えた頃、泣きながら眠りについた。  私はその革帯をそっと外して机上に置き、今その傍らでこの日記をつけている。彼が目覚めたときに私の気配を感じ取れるように、その目が最初に私を見るように。   ジュラキュール伯爵の記録   如月第三日目  雨  波高し  前日夜より出帆。本朝バラメーダ沖にて海軍第二八五支部艦と合流。かのリオン号発見の海域へと赴く。この季節、寒流は速い上、先日来の前線通過に伴う北東の風が追い風となるため、漂流といえどもその速度は比較的速かったものと思われる。行方不明者、依然一人として発見されず。  海軍支部長のカスティーリオ中尉麾下の防衛網はバラメーダ港の警備強化に加え、港西端のガラルダ灯台より我が領土西岸のビスケー暗礁を自然の盾とするサンルーカル水道を封鎖、これにより賊どもが唯一航行可能の海域を領土東岸の断崖地帯に限り、追い詰めるというものである。サンルーカルの通過がない以上、賊は断崖地帯の他に隠れ場を持てなくなるゆえ、まずはそこへ足止めをさせる算段である。包囲がさらに絞らるれば賊は逃走するか、断崖沿いに我が城の前へ現れる他になくなるが、それこそまさにあたわぬこと。カスティーリオ中尉の旗艦と我が城の無敵の防備の挟み撃ちとなって海に沈むが定めである。  だが中尉精鋭の艦隊と我が船を以ってすれば東の断崖のいずこかに隠れおる賊の船を先に発見し、殲滅することができよう。城の防衛を発動せずにすむことを第一義としたい。   ジュラキュール伯爵の記録   如月第四日目  小雨  北東の風やや強し  内憂外患とはまさにこのこと。  外患に備えた旅より城に戻らば、城下の村は一昨日深更、城より飛来せし赤い目の人狼に人が斬りかかられたと騒然。呪われし血の悪魔ミホークを生かし続ける事、いよいよ許されぬと皆いきり立ちおり、この騒擾を静めるに半日を労す。顔役たちは全員一致でミホークの公開処刑を余に要求すると決議したが、時既に宵を迎えんとしており魔の力昂ぶる時なれば、明日の日の出を待って拘束、白昼正午の執行を約束する。  また村民の言によれば都より寄来のヘルシング教授があれの魔力を自在に操ったとのこと。彼が眷属となりしか審議する必要あり。余の脳裏に氏の首のスカーフの件が思い至る。氏には余の不在中の報告をと申し付ければ夜餐にてとの由。   V・ヘルシング教授の日記   如月第四日目  曇天  何という不条理!我が友ミホークの処刑が決まったとは!あの純真にして才溢れる少年を、この村の連中は稀代の吸血鬼と断じて明日正午にも嬲り殺しにするという。何という衆愚!  そして私はといえば、これもミホークの眷属に成り下がった哀れな犠牲者と断ぜられ、今は居室に軟禁されているありさまだ。窓に戸に大蒜の花をぶら下げ、壁にはいくつもの十字架が掛けられたこの部屋に、私にミホークへの内通をさせぬため閉じ込めているのだ。明日正午にミホークを殺したら私をここより出すと言うがどうだか分かったものではない。致し方なく、私は今この日記を書いている。万が一にも血に飢えた裁判の行方がこの私の命へも及んだ場合は、この日記だけが私とミホークの無実を知らし得る唯一の希望となるからだ。  帰城した伯爵より不在時の報告が聞きたいと伝言があったのは既に夕刻を過ぎていたので、彼が村で昨晩の事件を聞いているのは確かなのだから伯爵を説得するには今晩をおいて他にないと覚悟を期していたのだ。だが、夜餐の席にてまさかそのような宣告を聞くことになろうとは。  ミホークもまたその聡明さで事を理解していたが、彼は今どんな気持ちでいるだろうか。  彼の居室を出る前、私たちはいくつか決め事を交わしておいた。  一つは伯爵や村の有力者たちが何を言おうと私ことヴァン・ヘルシングは神に誓って友を守るため戦うということ。故に我が友ミホークは、我が為に生き延びること。  二つは夜餐の後、私がミホークのもとへ現れぬときは凶兆と覚悟し城の脱出の機を窺うこと。これは今しも役立っているわけだが、灯台への抜け道など、城には人目につかない脱出の手段がいくつもあるという。今はこの部屋の扉にも見張り番がついているが、いつか脱出の機を得られれば、私も崖下の桟橋へ抜ける算段となっている。私の胸のポケットにはミホークが道順を記してくれた紙片があるが、これは叔父上も知らぬ秘密の通路だと言う。城とは身内さえも欺くほどの秘密を必要とするまこと恐ろしいものであると知ったが、今はそれに感謝せねばならない。  三つはいついかなる時でもミホークと私は人は殺さぬということである。たとえ追っ手に対しても、いや罪なき咎に追われている今だからこそ、我々は正義を貫かずして汚名を雪ぐことはできないこと、肝に銘じねばならぬのだ。  夜餐の席、といっても餐は出なかったのだが、テーブルについていたのはジュラキュール伯爵と城下村の村長と三人の助役たち、そして昨晩家族に暴力を振るっていた件の男(郵便屋)とその隣人という計七名であった。  隣人氏によれば、普段は善良なるという郵便屋が昨晩は珍しく家人と口論になり、いつになく激昂していたため諌めようと表へ出たところ、城の方角より黒い狼の姿をしたミホークが疾風のごとく現われ扉より侵入、人の姿となって長剣を抜くが早いか主人に斬りかかったのだという。主人が、持っていた棒で剣を受けると棒は真っ二つに斬られ主人は転倒。だがミホークが部屋の隅で怯えていた彼の女房子供に襲いかからんとしたのを見て勇気を振り絞り挑みかかったところ、またしてもの一閃に弾き飛ばされ、このとき負傷した。にも関わらずふたたび果敢にも立ち上がったとき、今度は私、ヘルシングが割って入り妨害したが、これがミホークの剣を停める結果となり、二人は部屋を出ていった――のだそうだ。さらにミホークは赤い目を 炎のごとく爛々と光らせ、長く伸びた牙を剥いた悪鬼のごとき形相であったと、もうここまで来れば文学者並みの創作多分にして聞くに堪えぬほどの「証言」を垂れ流したが、これが村人の恐怖心と見事に合致してしまい、今や伯爵までが頑迷に信じ込んでしまっている「事実」なのであった。人口五百足らずの辺境が今や集団ヒステリーの様相を呈しており、彼らの「判決」(被告欠席にして弁護士不在で何が裁判か)は、明日正午にミホークの処刑を行なうと決したのである。  私はミホークが本当に吸血鬼かどうか確認すべきだと進言した。万が一にも人間の子供を悪魔退治の方法で惨殺してはこの村全体が神の意志に背くと脅し、私自身にテストをさせてほしいと願い出たのである。だが伯爵は、私が既にミホークの牙の犠牲となりその眷属と成り果ていると断じ、すべての証言及び進言にミホークの計略がかかっていると断じた。そしてその証左と言って、ああ何という運命のいたずらか、伯爵は私の首のスカーフを剥ぎ取ったのである。そこには初対面の際、ミホークが噛みついたあの傷跡がまだ残っていたのだ。  私はとっさに、伯爵自身から賜り首に掛けていた白木の十字架を掴んでかざした。私が今もこうして十字架をおしいただき、神の名を口に出来る事こそが、私が吸血鬼でない証拠であると言い、またこの噛みあとこそがミホークの人間であることの証明であると返した。  周囲の大人たちから恐れられたことで幼い心理には自らに落ち度があるとする思い込みが生じるということ、それが嵩じて大人たちの言葉、つまり自分が吸血鬼であるという妄想を真実として鵜呑みにしてしまう、これこそは人間の精神構造上に全く誰にでも起こりうることで、ましてや幼い子供にはより顕著であることを説いた。そして私は少年ミホークが吸血鬼でない証明として首を噛まれた私の身に何の変化も起こっていないことを示してみせたのだ。私は彼らが用意していた大蒜の白い花束を胸に抱き、壁の鏡の前に立ちさえした。  私は人間だ、そしてミホークもまた人間なのだと、私はミホークの部屋まで届けとばかり声を大にして叫んだ。  しかしそれでも我が友ミホークの潔白を証明するには至らなかったのだ! 可哀相なミホーク!君のただ一人の友は君に迫る生命の危機から君を守ることはおろか、それを君に知らせに行くことすらできぬ非力な男だ。  神よ、どうかあなたのおさな子の一人を守り給え。  ――今しがた、私は窓の外に予感のようなものを感じ、そして窓を開けて血の気をなくすほど驚かされた。何とミホークが尖塔へと続く飛梁の上を歩いていたのだ。落ちれば間違いなく跡形も残らぬ空中を、折しもの嵐で風が息をするごとくに不規則な吹き荒れ方をしているというのに、彼は白銀の剣一本を口に咥え、両手をバランスに使いながら子供の足にも決して充分とは言えぬ幅の飛梁を斜め下へと下りていた。それは声をかけることさえ憚られる離れ業で、私はただ祈りながら見ているほかになかった。  だがミホークは、とてもしっかりした足取りで尖塔の外周の庇の先へ達し、とどめに小さなバルコニーへ大人の背丈ほどの差を飛び降りた。私は思わず悲鳴が出そうになったが喉がすっかり貼りついてしまって声も出なかった。しかしミホークの方が私に気づき、何と危ないから中に入っていろと合図をよこしてきた。冗談ではないと私は思わず身を乗り出した。  「私掠船が」ミホークの声がまっすぐに私の耳へ届いた。「東の海岸線に隠れています。嵐に乗じてこの城を襲うつもりです」  君はどこへ行くのだと私が問うと村に知らせに行くという。そうして身を翻して塔の中のらせん階段へと消え、すぐに地上へ現れては件の郵便屋が黒い狼に変身してと称したそのままであるかのように走り出して私の視界の及ばぬものとなってしまった。あっけに取られた私はまた机に戻り、こうして馬鹿の様に日記にペンを走らせている。  私掠船。武力で鳴らす大国が海賊と結託して小国や未開の地を襲い、略奪行為をはたらく、そうした船のことだ。ならば先日伯爵が警備のためと夜半に船を出していた件や、私がバラメーダの港で噂を聞いた件と関係があるのだろうか。  何かを書いていれば少しは気も紛れるのだが、今はもう他に書くことも思いつかない。