『鷹の目の少年』 1   医・文・哲学博士 エイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授の日記   睦月第二十六日目  荒天  みぞれ混じりの雨の中、四日ぶりに目にした陸地は、迫る夕闇を背に巍然としてそびえたつ、黒曜石の矢尻のような断崖であった。その頂点に我が旅の目的地たるジュラキュール城が、要塞のごとき威容で海からの来訪者を見下ろしている。後方を山岳地帯に囲まれ、海岸線を切り立った崖に守られたこの土地そのものが、言うなれば自然の要塞なのだが、船頭の話によれば船の着けられる場所も城の真下の桟橋の他にないというから、まさに天意にも人為にも隔離された土地である。かつて異民族の侵入をこの城とその主がことごとく退けてきた歴史が今も息づいていると窺えた。  こうした土地に生活する者は大概にしてゼノフォビア(余所者嫌い)の気が強い。バラメーダの港町において伯爵より差し向けられたこの船を捜した時も、本当に行くのかと幾人もが私に念を押したがそれも道理である。土地が、そこに生きる者の気質に与える影響は心療医学の領域においてもっと研究されるべきかも知れない。  もっとも、港の者たちがしつこく念を押してきたもう一つの理由が、この海域に最近出没したという海賊の噂にあることも聞き及んでいる。余所者を歓迎しない小村へ海賊襲来の危険を冒してまで行きたがる者などいはしない。  しかし、多少の危機はあったとしてもかくのごとき土地から、しかも城主自らの書簡によって私――医学者が招かれたという事実は、私の興味を引いた。文面には身内の件によりとのみ記されていたが城下の典医にすら口外できぬどんな事情があるのだろうか。  低気圧に荒れる波をおして船は城下の洞窟に入り、その奥に作られた船着場に着いた。いたのは使用人とおぼしき者が一人、カンテラの明かりを捧げて私に深々と頭を下げたが、フード付きのマントと手袋をしていたとはいえ、男か女か、医者の私さえもが判別に困る妙な風体だった。その者(白状しよう、終始無言ということもあってとうとう分からずじまいである)の後について石のきざはしを上る途中、何度か扉を押し開けたが、あれらは敵襲を防ぐものではないかと私は想像しつつ、しかし階段に次ぐ階段を上がり続けてしまいに息を切らせてしまった。  地上へ出る時も、最後の扉を開けた途端に激しい風が吹き込んで来て、私はせっかく上り詰めた階段を危くまっ逆さまに転げ落ちるところであった。さらにやっとの思いで辿りついたにも関わらず、眼前に現れたのは石の城壁と、またしてもの扉。しかも人の背丈の三倍はあろうかという黒石の両扉に、龍と悪魔の意匠が、まるで戦いのさなかに石化したかのような迫力で彫りこまれているものであった。門番が、いったいどこから私とくだんの中性の使用人の到着を見知ったのか、人の力では開かぬ扉を内からの機械仕掛けによって開門したが、私たちが入城するとすぐさまからくりを動かして元通りに閉じてしまった。それを見ながら私は、はたしてあの扉は外敵の侵入に備えているのか、それとも中に入った獲物を閉じ込める役割なのかを判じかねて少々ぞっとしたものである。  入城後、城主ジュラキュール伯爵自らによる出迎えと歓待を受ける。伯爵は剣術に優れた偉丈夫と聞いていたとおりに体躯も立派で容貌猛々しく、地方の豪族独特の直截な蛮勇を備えた風であった。だがなればこそ本日の夜餐の席において、ともあれ難しいことは明日以降にと我が身を招聘した理由については曖昧な態度に終始したこと、そのご懸念の様子に少なからぬ恐怖心のようなものも垣間見られて意外であった。我が治療の仕事において恐怖をはじめとするあらゆる心の垣根は、それが患者本人のものであれ周辺者のものであれ、大いなる障害をきたすものである。私はまず伯爵の垣根を懐柔するに務めた。つまりは他愛ない雑談に興じたわけだがこれが伯爵にはことの外に気晴らしとなった様子で話は深更にまで及び――先刻やっと解放されて今、あてがわれた居室の書物机でこれを書いているところである。  伯爵の言によれば、ここの城下町は象嵌細工と彫刻の調度を名産にしているとのことで、なるほど領主の城はその最高級品に溢れている。カーヴィングのまことに美麗なさまは、城のあの大扉の意匠にも明らかであったし、この客部屋の机も鏡も、そして天蓋付の寝台も、私には気後れがするほどの逸品である。  だが。  この城の空気を支配するこの重さときたら一体何事であろうか。あの伯爵さえも怖れさせるほどの何かが、確かにこの城にはある。それは今晩初めて足を踏み入れたこの私にさえも容易に知れるのだが、あえて表現するならいつも何かの視線に怯えている、といったところだろうか。伯爵も、またすぐれぬ体調をおして一度だけ挨拶に見えた伯爵夫人も、果ては皿を下げる使用人までもが、しきりに視線をちらちらと泳がせるのだ。かくいう私自身も、時に感じるものがある。幽霊や怪異現象といったものを好む輩には格好の餌食となりそうな話だが、現に今も戸口に気配を感じた。確かめようと椅子を離れた瞬間にそれは去って行ったが、戸を開けると軽い足音が石の廊下の向こうに響いていくのが分かった。実体はあるようなのでとりあえずは一安心する。  外は断崖を削る荒波の咆哮が止まぬ。内は、雨風で冷えきった石壁とただならぬ空気の重さに支配されている。時刻はだいぶ遅いがこの中では床に就いてもすぐには眠れそうにない。   城主 ジュラキュール・ファルコン伯爵の私的記録   睦月第二十六日目  エイブラハム・V・ヘルシング教授本日御光臨。中央の学壇における博覧強記ぶりは遅き粗餐においての雑談にても判ぜられた。御容貌は象牙の塔に篭もる者の常にあらず野性的精力的な様。本日はご休息を促し、ミホークの件については明日以降とす。ミホークは本日終日騒ぎを起こさず。   V・ヘルシング教授の診療記録   睦月第二十七日目  本日、我が患者たる少年、すなわちジュラキュール・ミホークと初対面する。  案内の使用人(伯爵は足を運ばれなかった)が私を扉の隙間より押し込めて消えた後、少年の殺風景な居室にて二人きりで対峙した。  彼――ミホークが振り返ったときに私の胸中に走った戦慄、その異様さへの純粋なる憤りを、私はこの診療の全過程において忘れてはなるまいと誓うものである。  少年は、自らの居室にあってさえ、黒い革の帯で目隠しをしていたのだ。  私は務めて平静を装うか、それとも虚心坦懐に驚きを表明すべきか、僅かに逡巡した。その時、少年が私にはじめに言った言葉は正確にこうであった。  「驚かせてしまって申し訳ありません、ヴァン・ヘルシング教授。ですが貴方が同時に私の境遇を哀れんでくださったことには感謝いたします」  十ばかりの年に似合わぬ才長けた口調は、あるいは貴族の子弟として受けた教育の所為かも知れぬが、視界をふさいでいる少年がここまで私の心の機微を捉えうるのかと、私はさらに驚かされたのであった。  伯爵から私のことを聞いたのかと問うと、少年はこう答えた。  「いいえ教授。私はあの叔父夫妻とはもう一年近く顔を合わせていません」  養育の責務を負う相手に対し、一年も接していないというのは奇妙である。その辺りから話を進めようと、私はまず少年の名を、彼自身の口から聞いてみるという、つまりは診療の常套手段より入ることとした。備忘に留めるなら伯爵は少年のことを『あれ』としか口にされなかったので、名前を聞くことは真に必要な行為でもあった。以降、少年の発言は一言一句そのままに写すものである。  「我が名、ジュラキュール・ミホーク。先代ジュラキュール伯爵の長子にしてこの城の主です」  この名乗りで早くも叔父君との確執が読めた。しかし長兄の遺した男子である以上、世襲されるべき爵位と領土の行方はこの少年の言を正しいと認めねばなるまい。現当主を名乗る先代の弟君はこの遺児を精神疾患の病人扱いにでもして系譜からの抹消を図る気なのか。はたまた相手が幼い少年ならば傀儡も容易いと思ったのか。  私がそんな考えを巡らせていると、少年が言葉を継いだ。  「ことはもう少し複雑なのです。教授」  「と言うと?」  私は、不覚にもこの会話の異変を見ぬくことができなかった。少年は正確に私の胸中の考えにこそ言葉を継いでいたのである。第三者がいあわせてこの会話を聞いていたとすれば、ずいぶん奇妙なものに聞こえたであろう。  彼はくるりと背を向けて、見事な織の絨毯の上を渡ると、窓に近いところの典雅な椅子の一つを私に勧めた。目隠しをしたままであったにもかかわらず、その足取りには不安がなく、むしろ凡庸な人間よりもしっかとしていたし、指し示した指先もきびきびとしていて自覚的であり、まさに栴檀は双葉より芳しといった風であった。  「私のことはミホークと呼んでください、教授」  椅子に掛けて向かい合いながら、私は少年を見た。利発な言葉にふさわしい引き締まった口元も、張り出した額も、そこに少しかかる他は後ろへ綺麗に撫で付けられた黒髪も、どれも非常に好感が持てた。手足のがっしりしているのが、白いシャツと黒のズボンという簡素な服の上からでも見て取れた。将来は叔父君にも劣らぬ立派な体躯を備えるに違いないことが医学を修めた目に容易に想像できた。  なぜ目隠しをしているのか、私は率直に聞いてみることにした。この少年には恐怖心や警戒心といったものがまるで窺われなかったので、前日に伯爵にしたような他愛ない話でまず緊張を解くといった行為は、他の子供はいざ知らず不要と思われたからだ。  「よく見えすぎるから、というのもあります」含みのある答えが返ってきた。  どのくらい見えるのかと問うと、自分にとっては生まれつきのことなので説明に困ります、と返す。成る程これは愚問だったと私は認めたが、少年はやはり答えを持っていた。  「昼間でも星が見えます。太陽の輝く南天の星も、です」  そういう実例は聞いたことがあると私は応えた。南天かどうかはさておき、ごくまれに昼の星を見分けうる視力の持ち主はいると文献にあったのを思い出した。  「ではその窓から」と少年は右手の窓を示した。私の部屋と方角が同じなのか、見えるのは海と空ばかりであった。「水平線に船が現れたら教授はそれを見ることができますか」  老眼のおかげで遠くはよく見える、というと少年は老眼を初めて聞いたといって説明を求め、興味深そうにそれを聞いた。  「ではその老眼の方は、水平線上の船の舷側に書かれた船名を読み取ることができるのですか」  老眼の方という言い方に笑いをこらえながらそれは無理だと言うと、少年は自分には読めるという。彼は「教授が乗っていらした船が水平線に現れたときからこの窓に立って見ておりました」と言った。これは少々虚言の癖があるなと私は思ったものだが、少年は続けて、船の名がアンダ・ハレオといったことや、私が船頭に呼ばれて甲板に出、この城のある断崖に見入ったこと、船頭がみぞれの中、腕まくりをして操帆に追われていたこと、その右腕に彫り物があったことなどを開陳してみせた。これらは全て事実と合致しており、私は多いに驚かされた。  ミホークは言った。「皆はこれが邪眼だと言います」  そうして黒い革の目隠しに手を触れた。ミホークの人並み外れた視力に対する人々の恐怖心が彼にそれを科したのか、それとも人に疎まれる元凶をミホーク自身が抹消しようとしたものなのかは確認せねばなるまいと私は思った。  「人には天賦の才というものがある。神が君に与えたもうた力を邪眼などと言って貶めるのは、私にはやや狭量な考えに思われるが」  だがミホークは小さなかぶりを振った。  「教授は学府におかれても碩学として尊敬を集めていると窺いました。ですから私の質問にも学術的にお答えいただけると思うのですが、教授は土地に伝わる伝説というものが常に真実を指しているとお考えですか」  常に完全にとはいかないがそのような伝承を生むに至った背景は学者の研究対象に足ると思う、と私は答えた。患者と呼ばれる者たちとの会話は時に突拍子もない方向へと飛ぶものだが、医師はそれを指摘しないのが通例なのでこの時も私は思うままを述べるに留めた。  少年はこの時初めて笑みのようなものを浮かべて見せた。「この辺境の領土では、無知な者たちが頭から信じ込み、そして恐れているのです――炎よりも赤く、全てを見とおすことのできる邪眼、それが吸血鬼の証であると」  そうして少年は革の目隠しを外し、私をまっすぐに見据えた。  射抜くほどに鋭い、血のように赤い目が私を捉えた。これにはさすがに私も驚いた。  赤い目、というものを私は彼のほかに見聞したことがない。まれに色素を持たずに生まれてくる白子というものには、獣であれ人であれ、瞳の部分に血管の色が浮き出ているものもあるというが、この少年は黒髪であり、明らかにその例とは異なっている。だから私の脳裏には、正確に告白するならば辺境の地に点在する吸血鬼の伝説が確かに思い浮かんだのは事実である。人外の力を発揮し、夜ごと人々の生き血を渉猟する魔人、その伝承における魔人の記述はまさしく人心を蠱惑する赤色の瞳とあったはずである。  その時、突然どこからか狼の遠吠えが長く引きずるように響いた。風が吹き荒れて鉄製の窓枠が音を立て、カーテンが揺れた。  「私のために」とミホーク。「遠路はるばるお越し下さったことには感謝しておりますが、お手を煩わせるものは何もありません」  それは丁重な終了宣告だったが、私は食い下がった。君は自分が吸血鬼だと本当に思っているのかと。血を吸ったことはあるのか、あるいは今、私の血を吸いたいと思っているのか、と。  そう言って詰め寄り、赤い目をひたと見据えてやるとミホークの方が先に視線を切った。  「お許し下さい。私は六年ぶりに人の顔を見ました」とミホーク。  「最後に見たのはどなたのお顔だったのかね」  お顔、と敬意を表したのは私にその答えの確信があったからで、それはまさに的中していた。  「かあさまの臨終の顔です」  以来、人前で目隠しを取ったことがないとミホークは言い、うなだれて私に背を向けた。  狼が遠吠えし、それに応えるかのようにミホークの喉が低く唸った。それは母君の思い出への慟哭などではなく――  私は性急に継いだ。「ならばなぜ、今私に外して見せたのかね?」  「見せた?」  言い放つと少年は私に背を向けたまま、傍らの美しい椅子を突き倒した。「邪魔だから取ったんですよ」  振り返ったミホークの目は紅蓮の炎のごとき赤に溢れ、私を睨み殺すかと思うほどの鋭さを持っていた。  「私は今、喉が渇いてしょうがないんです。だから」そう言って白い歯を剥き、狼のような唸り声を搾り出す。そして驚くほどの敏捷さで私の肩を掴んで押し倒し、ミホークは私の喉笛に噛みついたのである。犬歯の刺さる感触がはっきりと知れ、次いで痛みが襲った。私は、狂ったように吠え猛る少年の体を渾身の力で払い飛ばすと――ああ、今思い出すだに何たる愚行か――とっさに首の鎖を引き掴んで金の十字架をかざしてしまったのである。  少年の赤い眼が嘲ったのを見て初めて私は己の蒙昧さに気づいたのだが、同時にそれが少年の計略であったことにも気づき……私は、仕向けたなというような雑言を吐いた後、不遜にも十字架に八つ当たりしてそれを投げ捨て、そのあとまだ二三言訳のわからぬことを口走ってから彼の部屋を、逃げ出してきたのであった。   V・ヘルシング教授の診療記録   睦月第二十八日目  天候・嵐  朝食の後、ジュラキュール伯爵との面談を終えた私は今、伯爵をはじめとした人々がミホークの何を恐れ、そして私に何を望んでいたか、それを知った次第である。  忌憚なく記すならミホークはまさに恐ろしい少年ではある。彼は医学、心理学を修めたこの私の心の不明さえも冷徹に読みきったのだ。私は学府で碩学などと称えられ奢り高ぶっていたこの浅薄な頭脳を恥じずにはいられない。吸血鬼などという未開の辺境のくだらない迷信を嘲笑していたはずの私が首を噛まれたくらいでとたんに十字架をかざして宗旨変えをしたのである。「君は吸血鬼などではない」と言った、その舌の根も乾かぬうちにだ。ミホークに大人の欺瞞というものを思い知らせてしまった私は、しかし人間が人間を「癒す」ということがいかに難しいかを考えずにいられない。世に「治療」と呼ばれるものは実は治療でもなんでもなく、私自身がこうして痛みを分けることでしかない。  私の沈鬱な気持ちが表情に出ていたのであろう、伯爵は「さっそく化け物ぶりを発揮しましたか」と開口一番そう言った。  「あれの邪眼をご覧になりましたね」  私が首肯すると伯爵は『眼』という単語を発した自分の口に小さく十字を切った。「誤解なきよう申し上げますが我がジュラキュール家の代々の者にあのような眼はかつても今も一人としておりませぬ。あれは亡兄の子ではありません。あれの母親がしばらく病の床に伏せっていたことがあったのですが、おそらくその頃に魅入られたのに違いありません。その、魔物に」  そうして伯爵はまたしても十字を切った。  心の病に関しては「あれは病人です」と言って連れてきた家族の方こそが治療を要する場合もままあるのだが、この城もまたそうした場合のように思われる。  ミホーク自身のあの吸血の素振りは多感なる思春期にありがちの、復讐的反抗である。愛されぬ恨みを反社会的行動に転化するのはしかしある意味全くもって正常な子供のすることである。十歳という年齢にしてはやや早熟かも知れぬが、あの利発さを思えば無理もない。  『皆はこの眼が邪眼だと言います』と言ったミホークにしても、また彼の周辺者たちにしても、その恐怖の対象は彼のひとかたならぬ視力と伝承に合致する赤い色の眼にあると思っていようだが真実はそのさらに奥にある。  恐怖は、何より嫌悪は、恥じずにいられぬ不全な自己を目の当たりにさせられた我々の心の中にこそある。人は己の醜さを正視するにたえぬ。ゆえにそれを見抜き、我々自身の眼前にしかとつきつけるミホークの知性の存在こそが恐ろしいのである。この私とて、ミホークの策にまんまと引っかかり迷信を鵜呑みにした自分の愚かさに気付いた時は、うろたえ後先考えずに彼をなじったのだ。私に、それこそ学というものがなく、冷静な分析を欠いていたとしたら、私も間違いなく『あれは邪眼だ』と言って彼を迫害する側に回っていたはずである。  そしてミホーク――ああ、彼は確かに未だ子供なのだ。彼もまた人々の心を裸にし、その弱い部分をさらけ出させる自らの知性というものを気づかずに、ただ赤い眼が悪いのだとばかり思いこんでいる。そしてただ闇雲に黒革の帯を巻いて己を閉じ込めている。それが哀れでならない。  何より彼の鋭い観察眼が、まず己を正しく「見る」ことが必要である。  それには彼の魂の行く先に確かに道の存在することを、この私が見せてやらねばならない。それを成さしむるだけの力を授け給えと、私は神に祈らずにはいられない。  昨日は混乱のうちに終わったが、今日は昼のうちにこの記録をつけることで私自身の整理がついた。今晩遅くにもう一度ミホークに会う。   (同日・続き)  時刻からいってもう私が訪れることはないと思っていたのだろう、彼に知性の鎧をまとう時間を与えない私の策略は成功し、ミホークは前夜の奇行が嘘のような素直さで私を部屋へ招じ入れた。戸口に立つときは必ずそうしているのだろう、黒い目隠しをやはりつけていたがそのことには触れず、私はまず昨晩の詫びを入れた。だが仕組まれたことは多少恨んでもいる、だから昨晩の件は互いが悪かったのだと水に流し、これからは友として互いに誠実に付き合おうと言った。  ミホークは――今思い出しても可笑しいくらい、そして悲しいくらいに動揺していた。よろけた拍子に椅子を蹴倒し、さらにそれにつまづいてしたたかに転び、私が助け起こしてやると陸に上げられた魚のようにばたばたもがいて逃げ走った挙句、なんと自分の部屋の壁にまともにぶつかって倒れたのである。豪奢なタペストリのあるところで良かったが、額から少し血が出ていた。私は革帯を剥ぎ取って目に異常のないことを調べてからハンカチーフで血を拭ってやった。血と同じ程に赤い両の目がまっすぐに私を見ていたが、昨晩あれほど恐れた自分が恥ずかしいほどに彼の目はその赤こそが美しいと私には思えた。三十年にもわたる治療の研究と実践の中で常に私を感動させることは、「患者」と呼ばれる人々の心の中にこそ私を成長させるものが備わっているという事実であるが、このミホークこそまさに筆頭であろう。否、精確に記すならばミホークはどこも病んでなどいない、まさに正常な子供なのだ。しかし同時に凡庸な者にはない優れた才気と精神を宿している、選ばれし子でもある。  私はミホークに言った。「君はまこと得難い友だ。君が我が友でないと言うのなら、一体誰がこの老人の無知と思い上がりを思い知らせてくれるのかね」  ミホークの赤い瞳が揺らぎ涙が溢れた。私たち二人はその後はもう何も言葉にすることなく、ただただ固く抱き合ったまま互いに涙を流し続けた。  今日は記念すべき日である。神はこの老いた身にもまた新しい友をお恵み下さったのだ。   ポルトヘラルド紙の記事   (ヘルシング教授の日記に挟み込まれていた切抜き)   睦月第二十九日目  バラメーダ港沖に難破船出現  海賊船襲撃? 乗員全員行方不明  二十八日未明、バラメーダ港に入港した定期船から沖に難破船ありの報を受け出動した海軍第二八五支部隊は、バラメーダ港沖で難破していた商船『リオン』号を発見、曳航した。船内は至るところに戦闘の爪痕生々しく、乗員は船長以下九名全員が行方不明であった。海軍は彼らが海ヘ投げ込まれた可能性が高いとして今朝より捜索船団を結成、近海の警備強化と共に生存者の発見に全力を注いでいる。   ラ・グァルディア紙の特集記事   (同じく切抜き。ただし一部)  『幽霊船旗艦』暗躍の兆し?  『リオン』号海難事件の経緯  二十八日に無人の状態で発見された『リオン』号の惨状は、かの悪名高き『幽霊船旗艦』海賊団の襲来を示唆するとして、バラメーダ港の海運業者たちの心胆を寒からしめている。  『幽霊船旗艦』海賊団はこれぞと見定めた商船を襲い金品を強奪せしのち、乗組員全員を殺して海に放りこむ残虐非道を常套手段とするものである。ゆえに遭難船は人っ子一人いない状態で漂流しているところを発見され、ここより「幽霊船」の「旗艦」と称される次第。また巷説に艦は目も覚めるほどに美麗な純白の帆を張るとも言われているが、それも地獄へと手招きする魔女の蠱惑の艶と覚悟せねばなるまい。   城主ジュラキュール・ファルコン伯爵の日記   如月第二日目  ヘルシング教授は余と面談する他はほとんどの時間をミホークの部屋で過ごしている。晩餐でさえ昨夜はかの部屋へと運ばせたとあって、余の懸念はいよいよ嵩じつつある。  一見するところ教授はその精力的な御心持ちがこの土地の水と火に早くも馴染んだようで、初対面の日よりも溌剌とした御様である。首都の最高学府におかれても八面六臂と名高い教授ゆえ、とは思いたいがよもやあれの邪眼に早くも屈し、その心力に薬物的とも言える興奮をもたらされているのではないかと案じずにはいられぬ。  ことに、余にあれの才を説いて聞かす声にはただならぬ興趣が混じるようになった。「彼の利発ぶりを見聞きするにつけ、こちらのジュラキュール家の優れた血筋への敬意がいや増しますぞ」などと、教授は宴の皿よりも多くの賛辞を並べ立てたが、それもあれが教授をうまく取りこみ余を謀らんとしているように見えてならぬ。  何より余を危惧せしむるは教授が初めて診察した翌朝より首に巻きつけている絹のスカーフである。それとなく問うたが、なに普段からの趣味ですよと微笑にてかわされた。しかしご入来の旅装にスカーフを着けておられなかったことを世は断じることが出来る。単なる偶然と思われぬ符合だ。  教授が万が一にも夜毎にあの邪眼の餌食となり、いつか神の示し給う道を見失うようなことになれば、それこそ我がジュラキュール家の名折れと覚悟し、細心の注意を払わねばならない。  だがなんと言う折悪しき不運。あるいはこの凶事もまた、あの目の招きしことなのだろうか。近海に悪名馳せる海賊団の不穏な動きがこの領土と、バラメーダの港町に人心の不安を引き起こしている。早急に警備を強化する必要に迫られて余は今晩城を空ける事と相成った。このことは使用人にも厳しく緘口令を敷き、くれぐれもミホークに知られぬよう務めたが、用心に用心を重ねる必要から教授にも知らせずにある。教授を欺くのは心苦しいが致し方ない。  さらにもしもの場合に備え、教授には余から当城の慣わしと言って十字架を一つ贈っておいた。この時節には魔物が跋扈するという古い迷信があるので、いわゆる地方趣味とでも思ってお楽しみをと、これもまたの作り事で強引に首へおかけすると、教授は案外に面白がり、滞在中はつけておりましょうと納得した。さらに含めて、十字架は内芯に聖水で清めた刃を仕込んであるので、いざという時は魔物の心臓めがけてこれを刺しなさいと言うと、これも珍しがられていた。  城内といい近海といい、まさに内憂外患とはこのことであろう。  だが言うなれば兄君がカッソールラの雪渓にて非業の転落死を遂げられたことも、義姉君が意気消沈して病に斃れられたことも、そもそもあれがこの家に生まれついて以来、続くは不幸ばかりであるのだ。余もゆめゆめ油断は出来ぬ。船の準備は万全に万全を期して行くつもりだ。