『血の港』3  「嘘じゃない」ニヤリと、石の仮面が笑ったように見えた。「お前たち余所者は事情も知らず闇雲に俺を倒そうとしたが、この男は違った。この俺の言葉に耳を傾け、そして俺の味方になってくれたんだ」  仮面はロカイユの体を地面へと下ろした。  「この男に引き合わせてくれた礼として、お前の命だけは見逃してやる。情けは一度きりだぞ」  手が、離れた。  ロカイユが返す手でミホークの手を掴もうとしたそのとき、ミホークのものであった体は華麗に翻って飛びすさり、黒い鳥のように去っていってしまった。  その向こうに日が傾き始めていた。  港町がもうじき血の色に染まる。  ロカイユは僧衣を引っつかみ、走りながらそれを着こんだ。襟までをきっちりと包む厳格さを信仰の鎧と表現する者もいるが、確かにそうなのかもしれない。 鼓動するたびに痛む傷を構うことなく、ロカイユは走り続けた。  燃え上がる教会の前まで来たロカイユの目に、町への下り坂を飛ぶように走り抜けてゆくミホークの姿が捕らえられた。  風が強く吹いて火の粉が高く舞い散り、僧衣の上にも降り注ぐ。木材や土壁の燃える臭いが夜でも灯火を使わず、煮炊きの火も極力使うことなく長い時間を過ごしてきたロカイユの脳裏に、幼い日の禍々しい記憶を甦らせた。黒い夜空を赤く焦がす業火。だが今は血の夕日をさらに赤くする呪いの火だ。  「ミホークさん!」  坂の下へ叫んでロカイユは教会の前を走り抜けた。半年とはいえ住みかとしてきた司祭館の焼けているのを見るには忍びなかった。  息が切れるのをどうにかだまして走りついた町は、既に恐慌の中であった。壁を斬り砕かれた家の中で、豪胆で鳴らす海の男があわあわとわめき続けていた。ロカイユが家に入り、その肩に手を伸ばしたが、火がついたように叫び出して手に負えず、何かを聞き出せる状態ではなかった。少し先でも悲鳴が上がるのが知れて、ロカイユは再び走り出した。  大通りへ出ると、ミホークの体を借りた仮面が右の手にミホークの刀を構え、左手に港湾局の係員の男を引きずっているのが見えた。男は泣きながら助けを求めていたが、誰も近づくものはなかった。 「助けてくれ、だと?」仮面が高らかに笑った。「俺だって助けを求めたはずだ。だがお前は俺を海軍の奴らに売ったじゃないか」  男の体が前方へ投げ出され、そして黒刀に追いたてられながらよろばう。  「自分の犯した罪を知る時が来たのだ」  そうして仮面は男を、港を見ることのできる広場へと連れ出し、そこで突き転ばして脚を切った。動くなよといった仮面の言葉は絶叫にかき消された。 「ラランジュ!」仮面の声が赤い空を震わせた。「ラランジュ! どこにいる」  同時に目前の建物の入口を壁ごと吹き飛ばす。中に隠れていた若い男たちは泣きながら同じ方向を指差し、口々に命乞いをした。仮面はその方向へと突き進んだ。  目的の人物はあっけなく見つけ出された。仮面の呪いとミホークの剣技の前に命を張って立ちはだかる者はおろか、口をつむぐことのできる者は皆無だったのだ。ラランジュと呼ばれた壮年の男は逃げこもうとした事務所から部下たちの手によって締め出され、狂ったようにドアを叩き続けているところを引きずられて、広場に連れ出された。  「ラランジュ、お前が懐に入れた金の正体を知っていたか?」  仮面に言われてラランジュは懸命に首を振り続けたが、こめかみに黒刀の刃を当てられ血を流すと、びたりとおとなしくなった。  さらに名指しを続ける仮面に、人々は争って人身御供を自分たちの群れから弾き出して捧げた。  そのとき海軍の一団が銃列をなして広場に現れた。仮面が振り返るとそれは問答無用に撃ち放したが、すべての銃弾が黒刀の切っ先に弾道をねじ曲げられ、あるいは二つに割られて地面に落ちたのを見ると、やはり恐慌をきたしてあとは町民たちと同様に自分たちの上官や同僚を置いて逃げて行った。  そうして軍人七人と、港湾局員の男にラランジュと呼ばれた元警察署長、そして港湾局長の計十人が互いに身を寄せながら町の広場へと狩り出された。 夕暮れを迎えていよいよ血の赤を増した風景の中に漆黒のコートを翻し、手にも漆黒の太刀を提げた男の姿はまさに死そのものに彼らには見えた。  仮面が高みから見下ろした。「民間の定期船を砲撃したのは誰だ」  無言。  「その過ちを無実の、しかもお前たちが殺した船長と航海士とにかぶせ、闇に葬ろうと決めたのは誰だ」 男たちはやはり無言だったが、九人の目が残る一人に注がれたのは隠しようもなかった。  「署長、なぜ捜査を打ち切り、海軍の言いなりに報告書を書いた」  「かっ、金を」涙と鼻水にまみれた顔の老人、ラランジュが答えた。「金をもらった。クラン少佐から」  少佐の階級章をつけた男の胸元に黒刀の刃がつけられた。「その金、どこから出した」  少佐の言葉は要領を得なかったが、その目線が別の二人を指した。指された二人は黒刀の来るよりも早く「沈没船!」と叫んだ。「沈没船から拾い上げた金目のものを闇に売ったんだ。クラン少佐の指示で」  刀が残り四名の頭上を支配した。  「港湾局が沈黙し、警察も手を引いた。だがそれでも俺は、真実を突きとめた」  刀の先端から血の滴がぽたぽたと、涙のように零れていた。  「俺は町を出て、海軍の上層部に直接告発に行く決心をした。深夜に港を出て、沖へさしかかったところで、一艘の船に会った」  「大佐ッ」三人は大佐と呼んだ男の後ろへ隠れた。  仮面はその男の顔をねめつけた。「大佐か。出世したものだな」  その時、将校コートの裾が翻った。大佐は隠していたピストルで仮面の眉間を捉えると、そのまま撃ち放した。 白い羽根飾りがばさりと揺れて、同時に黒い帽子が吹き飛んだ。  が、地面へ落ちる前にミホークの左手に拾われ、代わって右手が黒刀を払いあげてそのピストルを、持ち手もろとも地面へぼとりと落とした。気障な白い銃把と拳の上に血が降った。  仮面は、少し表面を欠いたものの、ミホークに傷を負わせることなくそこにあった。研ぎ澄まされた体が反射的によけようとしたのを仮面が推し留めて、どうだ大事無かっただろうと囁いたのを知る者は、ミホークの他になかった。  仮面の目が、その下の鷹の目の威力を映したかのように赤を濃くした。「どこまでも卑劣な男だ。二度までも俺を殺す気でいる」  黒刀が、三人のうちの一人の首に触れた。「そう、あの時もそうだった。お前はこの三人に命じて俺を待ち伏せさせ、そして」  ぷつり、と刃の上に血の丸い玉が浮き、白い軍服の襟がみるみる赤に染まった。  「撃ったのは誰だ」  「おれ、俺です」刃の下の男が言った。「俺が、船に乗り移って、背後から撃ちました」  刃は隣の男の首へと移った。好き放題に暮らしてきたせいかカラーのまわりにたるんだ肉がぶるんと揺れた。  男は問われぬうちから答えた。「そのあと、俺たち三人で死体を運んだ。港の外れの洞窟に運んで鎖でつないで、港に打ち上がらないようにしたんだ。そのっ、大佐のご指示で」  だが告白はそこで止まった。見下ろす仮面の珊瑚の目から確かに涙が流れていた。仮面の下の旅の男の目からではない。間違いなく、仮面そのものが涙を流していた。  「そうだ」仮面の声が言った。「俺は撃たれ、しかしその洞窟で息を吹き返した」  男たちが凍った。  「お前たちが出ていった後、俺は意識を取り戻し、鎖を外そうと必死になった。洞窟は満潮になれば海中に没することを知っていたからだ」  黒刀の先端が地面へざくりと落ちた。涙を止めることができないまま、仮面は左手で顔を覆った。  「俺は、やがて水に呑まれたが、死の苦しみの中で誓ったのだ。お前たち全員を殺すと。そのためなら悪魔にでも魂を売ると。そうして願いは、聞き届けられた」  男に死後の命を授けた悪魔の、その翼であるかのように黒刀の刃が跳ね上がった。涙に濡れた左手が柄を得たそのとき、十人は懺悔し、慈悲を請う声を上げながらに次々と首を刎ねられ、己の罪の裁きを受けた。返り血が、死の代価、呪いの成就を祝うかのように石の仮面を彩った。  「おおおおお!」  黒刀を胸に抱いて仮面が慟哭した。  残照が濃い紫に変わり、血の港に一日の終わりを告げる。闇が、重くのしかかって惨劇を呑みこもうとしていたが、燃え続ける教会の炎がその支配を妨げて低い雲を赤く照らしたため、町は錆びた鉄のような色に変わっていった。 仮面は、この春の緑の祭りの前日に、とうとうすべての恩讐を果たしたのだった。  だが。  黒いコートが翻った。ミホークがそうしたのだとロカイユには分かった。  「呪いし男よ」声はミホークのものだ。「成就はしかと見届けたであろう?」  「ああ」  ミホークでない声が答えた。もうその体を借りずとも言葉を発するようになっていたのだった。「あんたには感謝している」  立ち上がったロカイユに、止まれとミホークの剣を持たない方の手が合図をよこしてきた。  「ぬし、まだ望みがあるのか」  「ああ」仮面の声はむしろ楽しげであった。「あんた、この町の連中を見ただろう?」  「何を望む」  「奴らは自分たちが助かりたい一心で次々と隣人や仲間を俺に差し出した。つくづく見下げ果てた奴らだ。町民も海軍も、この町にいる人間は腐りきっている。だからあんな事件が起きたんだ」  「……」  「あんたの力と俺の呪いをもって、この腐った血の港そのものをいっそ消し去ってしまったら、愉快だと思わないか?」  「待ってください」叫んだのはロカイユだった。  仮面が、にたりと笑った。「一度助かった命をあたら無駄にするか」  黒刀がふわりと舞い上がったが、ロカイユは退かなかった。  「あなたの死には同情します。でも、無関係な人を巻き込んでもあなたの魂は決して救われないのではないですか?」  「真に無関係とは言いきれないだろう?」  足元に転がる十の死体から鬼火が上がった。  「ところでお前、昔、町を焼き尽くしたことがあるといっていたな」  ロカイユはきっぱりと首を振った。「私の望んだことではありません」  「いずれにせよお前の引き起こした結果には違いあるまい。どっちでもいいことだ」  よくないな、そう言って割って入ったのは仮面の下から響くミホークの声であった。  「ぬし、己を殺した者たちを粛清し、成就を見たはずだ」  ぶん、と音を立ててミホークの手が黒刀の血を振り払った。美しい刀身はその輝きを取り戻し、主の背へ恭順として納まった。  「哀れなる弱き者への鎮魂にと我が刀振るいはしても、酔狂には付き合われぬ。ぬしは欲が深すぎる」  空いた右手が仮面へ延びる。だが仮面は鬼火からいかずちを得てその手を弾き返した。  「悪いがこの体、もはや返す気はない」  くくり紐が解けたが、仮面はミホークの顔を覆ったままそこにありつづけた。  「ミホークさん!」仮面の石の顎の先から血が滴ったのをロカイユは見た。  「温かい、生きている者の血だな」仮面が言った。「あんたがどこからやって来たのか、それすら知らない数奇なめぐり合わせだが、つまりはこういう運命だったのさ。そもそも俺の今の姿がなぜこの形を、ありし日の俺とは似ても似つかんあんたに似たこの顔をしているのか、俺はずっと不思議に思っていたんだが、今にしてみればこれは十二年の昔からあんたを呼び寄せ、やがてこの体を俺に得させるという予言だったんだろう」  「ミホークさんは」とロカイユ。「あなたのためにもう充分力を貸してくださったではありませんか。この町の人々もそして私も、何一つあなたの役には立てなかった。でもミホークさんは違ったはずです」  「説教をする奴は嫌いだ」  総毛立つほどの殺気が剣士でもないロカイユにもありありと感じられたものの、黒刀の身が鳴るどころかその右手の上がりもしなかったことは意外に思われた。が、すぐにミホークの力に助けられているに違いないと思った。剣が自由にならないと知った仮面はふたたび鬼火を集めていた。  「俺のためなどと言って近づいておきながら、裏では俺を倒すための機会を窺う。そうだ、あの神父もそんな卑怯な手を使って俺に寄って来たものだった」  鬼火が猟犬の頭の形となって辺りを取り囲んだ瞬間、ロカイユの体は金縛りにあった。  仮面は嗤っていた。「神父はまったくもって狡賢い」  ロカイユは喉を絞った。「彼はあなたと話をしたのですか」  「したさ。奴はお前よりは勇気があった。だが、奴はお得意の説教を持ち出して俺に復讐をやめろと言いやがった。しかも、こともあろうか俺を殺したあいつらを赦せとまで抜かした。赦せば俺も救われるだと? 俺をなんだと思っているんだ」  猟犬が周囲を回り、やがて一本の縄に変化してその中心にいるロカイユを縛り上げた。僧衣の厚い生地の上からでも容赦のない火にロカイユの体が縛されたままのたうち、苦悶した。  仮面が吐き捨てた。「まったくもって気に食わない。奴も、お前も」  ロカイユが地面に膝をつき、そのまま崩折れる。だが血が出るほどに唇をかみ締めて悲鳴は決して上げなかった。  「このまま灼き尽くしてやる」  その声にロカイユは顔を上げ、仮面を見据えた。「ミホークさんの言ったとおりだ。あなたは欲が深すぎる」  蹴り飛ばされたがロカイユはそれでも目を離さなかった。「あなたは復讐でなく、気に食わないからという理由で前任の神父さんを殺した。そうして今は町の人たちも僕も、みんな殺そうとしている」  ミホークの声が継いだ。「そう。この男に呪いの成就を願う求心力はもはやない。あるのは殺すことへの快楽のみぞ」  「ならば」ロカイユは言った。「あなたはもう復讐鬼ではない。殺人鬼だ」  瞬間、ミホークの右手が翻って黒刀を掴み、ロカイユを縛めていた鬼火を一薙ぎで斬り捨て、返す刀にその火を絡みつかせたまま、仮面を叩き落した。  十三年もの間、町民たちがどうしても破壊することのできなかった石造りの面が、とうとう砕けた。  夜の空に仮面の絶叫が轟いた。  地面へ落ちた破片は自らの集めた鬼火そのものに焼かれ、その熱に耐えきれずさらに割れて細かな破片となった。一度は空中へ浮かび上がったものの、珊瑚の目玉がぼとりと落ちて土の上を転がり、砂にまみれたままミホークとロカイユを見たが、すぐに炎に包まれた。  「うぎゃあああああ」破片は再びいかずちのような光を放った後、炎に舞い上げられて夜空へと散った。  「消えた?」とロカイユ。  だが仮面を剥がして今は自身の顔と深紅の目を晒したミホークは、眉間に一筋の血を流していたものの、珊瑚よりも恐ろしげな鷹の目で天空を追い続けていた。  「帰ってゆく」  「どこへ?」  「己がむくろのある場所へ」ミホークは手を差し出した。  ロカイユは痛みをこらえてそれにつかまった。「追わなければ」  だがミホークがそれを制した。「もはやどこへも逃げられぬ。それに今は我々が行けぬ」  「?」  「満潮だ」  ああ、とロカイユはため息をついた。ならば岩礁の洞窟は今は、かつて男の命を奪った時と同様、海の水に沈んでいるのだろう。そういえば春の緑の祭りは年々春分の日に最も近い満月の翌日を選んで行なわれる海の行事でもあった。洞窟に満ちる海水も他の季節より多いに違いない。いずれにせよ、次の干潮を迎える夜明け過ぎまで待たねばならなかった。  そうしてロカイユはもたれかかっている肩口から見上げてミホークの眉間の傷を見た。固まりかけていたがその血はまだ赤の色を残していて、それがまるで赤い目を三つ見開いているかのような錯覚をロカイユに起こさせた。だが血はやがて消えても両の目の赤は彼がそれを閉じる日まで、ずっと鮮血の色を留め続けるのに違いない。  「ミホークさん、大丈夫ですか?」  思わずそう口にしてから馬鹿なことを聞いてしまったと思う。ロカイユは目を逸らした。  その目に折り重なった死体が映った。  「この方たちを」  ロカイユは血だまりに膝をついて、寸断され転がっている首や手や足を拾い集めた。だが集めてからどうしたものかと考えてミホークを見やったとき、その赤い目が憐憫の情を湛えて自分を見ていることに気付き、それでやっと――我に返った。ロカイユは持っていた首を落とした。  今まで自分はどうして、この凄惨極まりない光景を何とも思わなかったのだろう。  体が初めて震え出し、そして止まらなくなった。ドサリと尻餅をつき、地面にも手をついたがそこもまた血のぬかるみで、いもしない蛇に触れた気がして飛びのく。生臭さに強烈な吐き気がこみあげた。  だがその腋をミホークがすくいあげた。力強い手が、触れたところからロカイユの恐怖を吸い取っていった。  危機は去ったのだ。  ロカイユの震えが止まり、呼吸が戻った。  それでもこの広場から見とおせる限り、町のすべての場所に、町民のただ一人も見えないことへの違和感はどうしても去らなかった。  六時間後。  東の空が色と明るさとを取り戻した中を、岩礁へと下りて行く二つの影があった。ロカイユとミホークだった。  怯える町民たちを説き伏せやっとのことで聞き出した場所に、果たしてぽっかり黒い口をあけた洞窟があった。奥のわりに天井が低いため、ミホークは背中の黒刀を入口の脇に突き刺して空身で、それでも背をかがめて入った。天蓋の岩から海水が雨のようにしたたり続けていた。  「あそこに」  ロカイユの指した先にあったものは、一本の木だった。細い幹がねじ曲がり、白い枝と白い葉が絡み合っていたが、土もなく、日も射さない洞内であるにも関わらず、青白いなりに二つ三つの実を結んでもいた。  ロカイユは足元を見た。黒い岩の間に這う根がその奥に白骨を抱くようにしていた。  十字を切って祈りを捧げてからその骨をあらためると、右の手首に鉄の輪が嵌まっていた。そこから鎖が延びていたがそれは二十年も海水に漬かっていたためにすっかり錆びつき、ミホークが十字架のナイフを立てただけで脆く切れた。  根をかきわけようとロカイユが手を出したとき、足元を少し大きな波が通りすぎた。すると骨は鎖と同じようにみるみる砕けて、その引き波にほとんどをさらわれてしまった。二度、三度と波が洗うと、残ったものはわずかな鎖だけとなっていた。  ロカイユはこのむくろが聖職者の手で葬られることを望んでいないのだと諦め、その場でただ祈るだけにして波を見送った。底のない呪詛に囚われて死んだ男のためにそんなことしかしてやれないのは残念であった。  ミホークの目は、人のむくろを養分に生長したその白い木を凝視していた。まるで目の力でそれを枯らそうとしているかのようだった。  「死者が冥府へ赴かず、呪いの力を得た理由はこの木にあるようだな」  ざわり、と白い葉が風もないのに揺れる。木もまたミホークを凝視している。  「これは、海の悪魔の木に相違あるまい」  「悪魔の木?」  ミホークが頷いた。「この目で見たのは俺も初めてだ。だが実の姿には見覚えがある」  それは暗がりの中にも薄紫の色を放ち、表面にわずかに渦模様を持っていた。  「悪魔の実だ」  ロカイユはぎょっとして実を見た。噂に聞いたことはあったが伝説だとばかり思っていた。  「成程な」ミホークは目をすがめた。「恨みを抱いて死んだ者を養分に結実していたか」  食べれば不思議な能力を身につけられる代わりに、海に嫌われて一生泳げない体になるという悪魔の実。世には百を越える種類があるとも、全くのほら話だとも言われているが、その力に憧れ、血眼になって探す者はもちろん多かったので、もしも見つけ出せれば一億ベリーにも売れるだろうという、そんな話はロカイユも聞いたことがあった。だが、その実が果たしてどこのどんな木になるのか、そもそもなぜそんな不思議な力を授けてくれるのかということは全くの謎であった。  二人は結局、その木には一切触れることなく洞を引き返した。  表へ出て、ミホークは黒刀をその背へ戻した。刀身を岩から引き抜いたとき、岩がのみで打ったように割れた。ロカイユがその破片の一枚を拾うと、それはまさしくあの呪いの仮面の感触そのものであった。ロカイユはそれを海へ放った。  そして二人は磯を上がり、草の丘を上った。温かい風が吹き、朝日が眩しく降り注いでいた。春の緑の祭りにふさわしい日和だった。  「ミホークさん」  ミホークが振り返ると、ロカイユの顔に陽光が差していた。  「ありがとうございます」  だがロカイユから見るミホークの顔は、日の陰になって表情もはかりがたい。美しい十字架を背に太陽に向かって歩いているというのに、その姿はなぜか闇の中に沈んでいるように見えた。  この男は今日にもこの港町を、ラ・ポルタ・デ・サングレを出て行くのであろう。もう二度と会うことはないかもしれない。ロカイユの目に涙が浮かび、ミホークの姿をにじませた。もっとしっかり目に焼きつけておかねばと思ったが拭っても溢れるのを止めることはできなかった。  ミホークもロカイユを見た。自分と同じ黒い服に身を包みながらも、青年はその一身に春の日を浴び、両の目にその光を貯めて眩しくしている。この港へ来ることはもうないかもしれないし、この青年に再びまみえることもないかもしれない、しかしそう思っても別れの涙はもたぬ身であった。  ならば。  「ぬし」ミホークは言った。「名乗ってみよ」  えっという顔で、ロカイユ、と言いかけて、しかし若い神父ははっとして首を振った。  「いいえ。いいえ、僕の名は――」  風が、二人の間を吹きわたった。  「憶えておく。まばゆき者よ」 だがミホーク自身はその光を遮るかのようにうつむき帽子のつばを下げると、まといつく闇のようなコートを翻して歩き出すのだった。 終