『血の港』 1  ラ・ポルタ・デ・サングレという土地の名は、地元の言葉で血の港と言う意味を持つ。  もともとの由来は西側に向かって開けた湾の形が夕暮れになると落陽を正面から浴びて、町全体をまるで血に染めたように見せることから来ているのだというが、今は呪われた血の港という意味のほかに人の口に上ることはない。実際、港はここ十年の間にすっかりさびれ果て、波止場に出入りする船は絶えて久しかったし、繋がれているのはいつからそこにあるかも知れぬ残骸ばかりだった。  今また日の終わりを迎えて町は血の色に沈んでいる。なだらかな丘に這う町並みも、形だけは残されている小さな船着場も、湾の突端まで低く突き出ている岩場も、すべてが毒々しいまでの血の赤に染まっていた。  その先の、血だまりのような海の上に、黒いしみにも似た影が一つ。やがて静けさを破ることなく一艘の小さな船の形となって現れた。漆黒の船体に一本だけ立つ帆柱が巨大な十字架のようにも見える、美しいが禍々しい船だ。  もやいを結んで降り立ったのは、男が一人。高い背丈よりもさらに大きな十字架の形の刀を背負って、袖と襟に瀟洒な刺しゅうのある他はやはり刀と同じ漆黒のコートをまとっている。黒いつば広の帽子には、白い羽飾りがそこだけ幻であるかのように揺れていた。  風がおののき、音がひざまずく。一瞬で全てを支配する男だった。 その、夕日よりも赤い瞳が波止場の前の建物を一瞥し、それだけでいくつかの人影を捉えた。それらは堅く閉ざされた扉の覗き窓や、嵐に備えるかのように板を打ち付けられた窓の隙間にあって、どれも怯えて息を潜めつつ男を凝視していた。  男にとっては初めて寄港し、上陸した町だった。海賊にでも襲われたのだろうか、そう推量し哀れを催す。  しかしこの港へ寄った目的、すなわち水と食料の確保がかなわないとなると厄介ではあった。  男の目が、丘へ続く町並みへと向けられた。目的のものはすぐに見つかり、そこへ歩き出す。  目指したのは教会だった。  進むにつれて勾配のきつくなる通りを行ききったあたり、振り返れば港と町を一望できる場所にその教会はあった。鐘楼と十字架がければ一見しても教会とは知れない、小ぢんまりと素朴な風であった。  怯えきったこの町でも、さすがに教会だけは万人を迎え入れる宗旨を遵守して扉に鍵をかけていない。  戸口から見た限り中に人の気配はなかった。宵闇も過ぎた時刻に灯りのあったわけでもなかったが、闇で男が気配を読み誤ることはない。  世界最強の剣士。それがこの男の持つ称号であり、存在そのものであった。世界で五本の指に入る剣士たちの残り四人が結託しても、この抜きん出て優れた力の持ち主一人を倒すことはできないだろう。そんな魔力を婉曲に、そして控えめに謳う方法が、この男にとっては最強という言葉であった。 その魔物が、普段ならば見向きもしない場所へと足を踏み入れる。それでも神聖な場所に対して帽子を取るという行為はやってみせた。 左右につましく並ぶ木の長椅子を縫って正面の祭壇へ。見上げる位置に十字架と、それに磔けられた男の彫像とがあったが、見上げる男にしても背中に十字架を背負っていて、互いに似てなくもない姿で対峙する。  ふと、空気がわずかに動いて、扉が開けられたことを告げた。右の側廊から穏やかな靴音が反響していたが、灯りは持っていないようだった。  誰何する声がした。相手を驚かさぬように配慮された声だった。  「先ほど港に着いた者だ」男も努めて静かに返した。  長椅子のところに現れたのは少し小柄な神父だった。まだ若く、威厳よりは人懐こさをたたえて、眼鏡越しに笑みを見せている。  「旅の方をお迎えするのは本当に久しぶりです。ようこそこの町へ」  その時、風が吹き抜けて上空の群雲を払ったのだろう、空が少し明るくなって窓から月の光が差した。  瞬間、神父の笑みは凍りついた。それは他所者の出現に対する警戒心だけではない、まさに命の危機に瀕した者の見せるありありとした恐怖の目で、男にとってはそれもまた間違いようのないものであった。  「神よ、まだ早いはず」息を呑み、後ずさった神父はその拍子に椅子にぶつかりしたたかに転んだが、それでもなお床を蹴って逃げようとした。  「おい」男が手を延べた。無論、神父を助け起こすつもりだったのだが、その手が届く前に神父はギャッと叫んでそのまま昏倒した。  風が吹き、月が雲に隠れた。あたりは暗転した。  神父は自分の寝台で目を覚ました。黒い僧衣の上着が椅子の背に掛けられ、眼鏡がデスクの上にあってきちんと折りたたまれていた。  ぐるりと見回すと、男が、寝台とは反対側になる部屋の隅に椅子を寄せ、壁にもたれて座っていた。だがつば広の帽子をかぶったまま腕を組んで俯いていて顔は見えない。  眠っているのだろうかと思いながら神父は男を見た。男に動く気配はなかった。  聖堂での出来事が夢でないならつばの下の顔を確かめる勇気が持てない。それでもふと、なぜ室内なのに帽子を被ったままなのか、そもそもなぜこの部屋にいるのかと考えてみた。聖堂で気絶した自分を運んで手当てし、そのまま残ったというのなら。  男が顔を上げた。やはり眠ってはいなかったのだ。  「あの、ありがとうございます」神父は言った。「僕が目を覚ました時、不安にならないように、いてくださったんですね」  男は答えなかったが否定もしなかった。  「あの」神父はばたばたとまばたきをした。「すみません。今、何時でしょうか」  「すでに深更だ」しみるような声が応えた。ああ、と神父は思った。  「でしたら隣に客室があります。どうか今夜は泊まっていらしてください」  男が神父を見た。外で風が強く吹いて、雲間の月が灯火のない室内を照らし出した。  月の光を浴びてもなお、男の目は赤かった。神父の体がぞくりと震えた。  「いえ、あの、もしお嫌でしたらお構いはしませんが」  男は立ち上がった。「一夜の宿、いただこう」  そうして音もなく出て行った。いなくなってしまうと男の存在などはじめからなかったかのように思われる。いつのまにか月は隠れてしまい、闇に包まれた神父はこれは夢なのだろうかと思った。だが、名前を聞かなかったことに気付いてもそれを後悔する間もなく、ふたたび眠りの泥の中へと落ちていってしまった。  翌朝もやはり風が強かった。  神父はいつもより遅くに目を覚まし、男が隣の客室から出て廊下を歩く音を聞いた。足音が中庭へ行くまでの間、ただ耳をすませる。  また、朝が来てしまった。  客人の一件でほんの一時気が紛れたものの、時は確実に迫っていることを思い知らされ、神父はため息をついた。  いよいよあと一日。そう思うと体が冷水を浴びたようになる。  窓から窺うと、朝日のあたる芝生の上で、黒衣の男がぽつねんと佇んでいるのが見えた。そこだけが光を切り取られ、夜の闇をそのまま残しているような印象だった。あの男がまだ昨日の夜の中にいるのだというなら、自分もそこへ入れてほしいと神父は思った。  少し迷ったがその光景をそのままにしておきたくて、神父は男には声をかけずに聖堂へと向かった。 一方でその影を窓の向こうに感じていた男は、神父が黙って聖堂へ行ったことを好もしく思っていた。十字架の形の刀を背負い、十字架のペンダントを提げてはいたが、どちらも信仰とは別の理由からであった。むしろ帰依や教義といったものとは対極にあるのが男の生き方であったから、宗教者の勧誘癖と独善性には時に辟易されられることがあるのだった。  やがて風に乗って、聖堂の方からオルガンの音色が届き、止んで神父の祈りの声に代わったのを男は感じた。伏せた帽子の白い羽根がふわふわと揺れた。  我ら何時如何なる苦難の日にも  怖れはすまじ  神我らと共にいませばなり  人を睨み殺すような、鷹のように鋭い目と、そして時にはあからさまに邪眼といわれ忌み嫌われるその目で、男は人並み以上のものを精緻にあるいは遠大に見ることができたが、それと同じほどに他の多くの物事を目によらず知ることができた。中庭に立ち、目は足下の枯草の下にある、ごく小さな新芽の萌えているのを見つめていたが、耳では神父の祈りの声を聞き、肌では男の位置からは見えない聖堂の中の様子を感じ取っていた。  そのいずれもが堂内の人の気配を、神父一人を除いて誰もいないのだと察知していた。信者のいないミサを愚直に執り行っている神父の姿が、見えなくとも見えているのだ。  ふたたびオルガンの音色が伝わってきたが、やはり唱和はなく、伴奏と神父自身の小さな歌声だけが続く。  足下から庭の前栽へ、さらにその先に見える道へと男は視線を流したが、町より至る上り坂にも人のやってくる様子はなく、ただ風だけが吹いている。  草を踏んで、男は司祭館へと戻った。  小一時間もした頃、神父は戻ってきた。 「おはようございます」  見交わした視線はぎこちなかったが、ともあれ笑顔ではあった。  「朝食、用意しますね」  男はダイニングで革装の写本を読んでいたが、それは書架へ戻し、神父は空いたテーブルに皿やパンかごを並べた。  「ミサ、いらっしゃるかと思ってました」神父はそう言ったが、それは結局最後まで無人であったことへの恨み言ではなかったし、来ないことも分かっていたという顔であった。  いちじくの砂糖漬けスライスをのせた少し古い黒パンが木の皿に供され、コップには赤ワインが注がれた。  神父は食前の祈りを捧げた。男はやはり祈らなかった。  窓枠が音を立てていた。雲の流れが速く、外は明るくなったり暗くなったりを繰り返している。  神父の祈りが終わると、男が居ずまいをあらためた。  「ぬしの歓待には感謝する」  「歓待だなんて」神父ははにかんだ。「昨夜は本当にとんだ失礼を」  神父は男を見た。写本を読んでいた姿は学究肌にも見えたが、向かい合ってみると男は戦士以外の何者にも見えなかったし、同時に戦士以上の何かにも見えるようであった。この、鷹のように鋭い赤い目と、前を開けたコートからのぞく彫刻のように立派な体躯を見て、果たして気後れすることなく向き合える人間がこの世に何人いるのだろうかとも思われた。  「我が名、ジュラキュール・ミホーク」  「ロカイユ・ジェレミ神父です。あなたを見て気絶したこと、どうか許してくださいね」  ミホークの赤い目が、みっと細くなり、ロカイユは逃げるようにコップを覗きこんだ。  「そのことだが」ミホークが言った。「俺はこの町に甚大な被害をもたらした何者かと似ているのか」  ロカイユはあいまいに頷いた。「ですが失礼ながら赤い目の人間は初めて見ました」  「つじつまが合わぬな」  「え?」  「瓜二つといいながら赤い目は初めてということ」  「あ、ええ」ロカイユは薄いレンズの眼鏡を持ち上げた。  「事情があるんです。ミホークさんはこの町にかけられた呪いはご存知ですか」  「いや」  「ならそこからご説明いたしましょう。というより今、この町にいらっしゃる以上、ミホークさんにも事情は知っておいていただかねばなりません」  ロカイユはコップを置いた。  発端は十三年前――  町の外れの、丘の裏手の谷間で死体が発見された。身元は当時の町長で、岩場からの転落死と判断された。  だが遺体には一つ、奇妙な点があった。町中の誰も見たことのない石の仮面がその顔を覆っていたのだ。町長が買ったとかもらったという話を誰も知らなかったので、それは持ち主不明の不審物件として町の警察署に保管された。  その翌年、『春の緑の祭り』の前日に再び謎の死が起こった。死者は海軍の少尉で、波止場にうつ伏せに浮いているのを発見されたが、その遺体もまたくだんの仮面を被っていたのである。そこで署の保管所を改めたところ、それは消えており、何者かによって持ち出されたと騒ぎになった。一年にわたる捜査でも仮面の来歴は知れていなかったし、なぜ少尉がそれを持ち出したのかも不明であったが、二件の怪死に関わる品となっては放ってもおけず、仮面は今度は海軍基地内の保管庫へ入れられた。  しかし、それからさらに一年後、町長の死から丸二年を経た、やはり春の緑の祭りの前日に、町の中央広場の噴水池で海軍の制服の男が頭を水に漬けて倒れているのが発見された。死んでいたのは保管庫をはじめ物資の管理を掌握していた兵站部長の大尉であった。当時はまだ港も栄えていたので、駐屯の軍人たちにもこわもてが揃っていたのだが、その死体を仰向けに起こす度胸を皆さすがに失ってしまい、やっとのことで軍医が来てみれば、悪い予想の通りにその顔が仮面に覆われていて町中が大騒ぎになった。三度目に偶然はありえない。翌日の祭りは中止になり、仮面は証拠物件であるにも関わらず、町の中央で油をかけられ焼かれた。それでも表面が黒くなっただけでひびの入ることもなく、翌年にはまたしても町の顔役の一人が死んだ。  そののちも、地面に埋めようが、海に捨てようが、仮面は翌年の春の緑の祭りの前日には誰かの顔を覆う形で戻ってきたのである。 ある年には旅の貿易商人を騙して売り飛ばしたが、その先でも凶事を起こして返品され、以来、その噂が広まって港へ来る者は絶えた。  そうして十一年の間に十一人の死者の顔を覆った仮面は、一昨年前にとうとう教会へと預けられた。なぜもっと早くにそうしなかったのかという声もあったが、中央の教区より派遣されてくる神父には、敬意を寄せこそすれ、町の暗部には関わってほしくないという、有力者たちの思惑もあった。だがそれ以上に多くの町民たちの間には最悪の事態だけは避けたいという、予感めいたものもあったのである。  年が巡り、果たしてそれは的中してしまった。町の呪いを受けて、神父が死んだのだ。  罪もいよいよ極まったと、町には絶望の空気が立ちこめた。代々住みなすものばかりの土地柄で町の外に頼るつてもなかったが、それでも人口の半分は流出し、残りは甘んじて審判を受ける他にないと、既に死んだような顔で暮らしているのだという――  「死んだのは僕の前任の神父です」ロカイユが言った。「僕は半年前にここへ来ました」  「強いられたか、あるいは己が意志か」  ミホークの問いは、もとより嘘をつく気がなくとも、嘘をついたり逡巡したりすることが無意味であることを思い知らせていた。  「意志です。ここへは自分の意志で来ました」  赤い目を避けるようにロカイユは立ちあがり、皿を片付けながら僧衣の背中越しに続けた。  「町をご覧になったでしょう? 呪いのせいで人々は怯えきっています。この町こそ神の救いを必要としています」  ミホークの目はそれを追い続けていた。「ぬしは哀れだな」  言葉は嘲りではなく、あくまでも意味のままであったが、それでもロカイユは問い返した。  「何のことでしょう」  「当の町民たちからも見放されている」  「ミサのことですか。先週は皆さんいらしてくれましたよ。でも」その肩がふと下がった。 「実は、今年の春の緑の祭りいよいよあさってに迫っているので」  「ならば人死にの出る前日とは明日か」  ロカイユはうなだれた。「しかも仮面はここにあります。恐ろしくて当然でしょう?」  「ぬしも恐ろしいか」  答えはない。  「人身御供か」  「できる限りの力は尽くすつもりです。それでもし力が及ばなかったとしても、僕は自分が哀れだとは思いません」  そのあと、ロカイユは前夜二人が会った聖堂へとミホークを伴った。  祭壇へ礼を捧げてから横手の納戸を開け、金属製の箱を取り出す。  「これがその仮面を封印してある箱です。僕が都で注文して買い求めたものです」  それは精緻なからくり箱であった。装飾や小板を押したり引いたり手順をつくし、だいぶしてからリンという音をたてて天板がずれた。  「この開け方は僕しか知りませんし、紙などにも書いていません。丈夫にできてますから落としたり叩いたりしたくらいではびくともしません」 天板を外して紫の布をめくると、問題の仮面が表を下にして現れた。  「町の人たちがあなたを怖れ、僕が気絶した理由がこれです」  震える手がそれをくるりと返した。焼かれたという黒い表面に、そこだけは毒のように赤い珊瑚の目が二つあり、掘り出された眉や髭の造形が見て取れた。  ミホークもさすがに驚きを隠せなかった。  「俺に似ている」  「でしょう?」ロカイユもこの地に来たその日に封印して以来、見ることのなかったその面を見据えた。  「以前、この仮面をご覧になったことは?」  「ない」 「誰かがあなたをモデルにして作ったという話は?」  「知らぬ」  「ミホークさん」ロカイユの寸の詰まった眉が険しくなった。「失礼ですが、あなた何者なんですか?」  「俺は」とミホーク。「剣士だ」  「それは人を斬るのが、殺すのが本分であると?」  「いかにも」  あっさり肯定されてロカイユは困惑したが、ミホークはその当然過ぎる答えよりも眼前の興味の方に惹かれていて意に介さない。仮面を取り出し、横向けてみたり裏返したり、くくり紐をたぐってみたりとさんざん観察し――  あげく、それを自分の顔へと直接重ねた。  指先で顎と頬を支えて俯いた姿は、まるで仮面そのものが思索に耽っているかのような生々しさを宿らせた。  「やめてください!」  強引に奪い取ると、剥がされた仮面と同じ顔のミホークが、赤珊瑚よりも赤い目で見ていた。  一見する限りミホークには何の変化も起きていない。そのことにはほっとしたものの、ロカイユはミホークを精一杯睨みつけた。  「なんて、なんて無茶なことを、なんで」恐怖ではない震えにてこずりながら布もたたまず仮面を箱へ押しこめ、封印をかける。  「明日が問題のその日だと申し上げたでしょう? もう二度としないで下さい。いいえ、もう二度とさせません」  だがミホーク自身はいたって鷹揚だった。ことさらに呑気というわけではないのだが、動転や焦燥、恐怖といった種の感情とおそろしく無縁なのは生来の性分であった。  「ぬしは、その仮面をつけてみたことがあるか」  「まさか」ロカイユの口から唾が飛んだ。「そんなバカなことをするのはあなただけです。子供じみた好奇心であんなことをして、取り返しのつかないことを招いたら」  「声が聞こえた」  「は?」  ロカイユの目が眼鏡の奥で丸くなった。「声、ですか?」  「いかにも」ミホークは箱の天板を見つめた。そうすることで本当に中が見えているのではないかと思わせる注視だった。  「若い男の、声が聞こえた」  「何と言っていたのですか?」  「人名を」とミホーク。「しかし個々には思い出せぬな。もう一度被って聞こえたらば、あるいは書きとめることもできようが」  「駄目です!」  ロカイユは自分よりも頭一つ半は大きな男の刃のような目を下から見つめ返した。  「成程」意外にもミホークが折れ、そのコートがあっさりと翻った。  「待ってください」巨大な十字架の剣を背負った姿を留めようとして、しかし伸ばした手がかわされた。  「行かないで下さい、ミホークさん」  箱の中に封じこめたのと同じ顔が振り返った。  「お願いです。あともう二日間、この町に留まってくださいませんか」  「何を望む」  ロカイユはコートの端を掴んだが、それは掴み続けるにはすべらかにすぎて不安が募った。  「春の緑の祭りをあさってに控えたこの時にあなたがこの町へいらしたのは、きっと神のお導きです」  「……」  「ずうずうしいお願いであることは承知しています。でも、どうか僕にもう少し力を貸してくださいませんか」  「危険な目には遭わせたくないが、戦いには加わって欲しい、か。ぬしは欲が深すぎる」  ロカイユの顔が赤くなった。確かに安全を一義に考えるなら、ミホークをすぐにでも出航させて自分は独りで戦うべきだ。だがこの呪いを解くために、これ以上の暗示はもう望めないのではないかと思うと、大勢を救うために少数を巻きこんでも致し方ないというのが欲深い自分の本音でもあった。  ならば。  ロカイユの手がミホークの胸から十字架をすくいあげた。  「恥をしのんでお願いします。この呪いを解くためにどうか僕と共に戦ってください」  ミホークの目は笑った。「非情なる決断の方を選んだか。その心に応じてやりたいところだが、あいにく俺はぬしには雇われぬ」  「いいえ、僕一人のためでなくこの村の哀れな人々のために、そしてあなた自身の良心に照らしてどうか」  ミホークの足が大きく一歩退いた。ロカイユも手を離さなかったので紐が切れ、十字架はその手に委ねられた。  金の身を引くと中から刃が現れた。十字架に刀身を仕込んでいたことに、ロカイユは少なからぬショックを受けた。